商店街活性化の「密教―顕教」的アプローチ

 明治憲法体制における天皇の権威と権力を
“顕教:立て前(小・中学、軍隊における教育=国民)”と
“密教:申しあわせ(大学・高等文官試験=官僚)”
使い分けと剔抉したのは久野・鶴見『現代日本の思想』(岩波新書1956)でした。

 これを踏まえて、第一次大戦以後の日本陸軍のウオードクトリン解明に「密教―顕教」という方法を採用したのが
片山杜秀『未完のファシズム』新潮選書2012。

 総力戦として展開された第一次世界大戦を経て帝国陸軍の課題は、“次の戦争の勝敗は物量と機械で決することは明白だが、「持たざる国」たる我が帝国の大戦略は如何にあるべきか?”ということでした。
 もちろん、軍は戦うための装置ですから、“避戦平和で行こう”は問題外、遂行すべき役割に含まれません。
仮想敵国はどこか、戦法は如何。

 陸軍の俊英が結論した第一次世界大戦の教訓は、今後の戦争はさらに大規模な総力戦となることは明白であり、これを踏まえて、現状、世界列強(とりわけ大陸を巡って利害が鋭どくに反する米国を含む)と対比したとき“持たざる国”の位置にある我が国の“戦争準備”は如何にあるべきか、 陸軍は、その任務としての戦争に備えるにあたって、どのような基本方針で臨むべきか?

 片山によればそれは陸軍トップの頭脳が描いたのは「密教」と「顕教」を鏡の両面とする大戦略でした。

 我が陸軍の戦争準備は:

□密教=我れと同様の“持たざる国”を相手に想定し、短期決戦(果敢に包囲殲滅、失敗したら後は無いから必勝の信念が不可欠)で決着する。 

□顕教=敵は誰であれ、まことと真ごころをもって討ちてしやまむ、玉砕=被殲滅戦法 

 密教では “持てる国とは戦えない・戦わない” という冷静な判断があるのですが、戦争を使命とする軍がそれを公言することは自殺行為、戦う相手を限定し“こういう相手であればこうすれば勝てる”を考えたら、“顕教”では“相手が誰であれこうすれば勝てる”という表現で打ち出していくことになります。

  密教的目的を達成するには、顕教的姿勢が不可欠ですが、これが「立て前」であると周知されてはたちまち全体が機能しなくなります。誰であれ(本音は別のところにある)「立て前」のために必死で訓練し、肉弾攻撃に赴く人は少ないでしょう。
“密教”を共有しているグループ以外は、「顕教」を終始一貫、本気で“物量に精神力で勝つ”を追求しなければならない。

  繰り返しますが、この“精神力路線”は“密教”レベルでの「持たざる国」を相手とする戦争において、短期決戦 ― 包囲殲滅戦法(ドクトリン)で決着をつける、という大前提のもとに選択されたものです。 
片山は、従来 “開明(ウソですね)” 海軍との対比で「トンデモ」視されがちだった陸軍のウオー・ドクトリンについてまったく新しい視点を提出しています。

 大東亜戦争は、当然、密(申しあわせ)・顕(立て前)を使い分けて立案されたウオー・ドクトリンに基づいて戦われましたが、実施段階で主導の座に就いていたのは顕教趣味のグループでしたから、密教部分は顧みず、四海皆敵、我に徒なす敵国は払暁突撃で全て殲滅する、という顕教部分のみを採用してしまった。

  ところが。
“包囲殲滅”は我よりも劣る敵を相手にしたときはじめて奏功する戦法、同等以上の敵に対しては通用しない、というか、そのときは “天佑” が無いと一撃必勝は期待できません。
“持てる国”と戦う場合にはほとんど勝ち目が無いのです。

 物量に優る相手に短期決戦を仕掛け、初戦段階の作戦で首尾良く包囲殲滅に成功しても、一戦の成果で即講和の席に着くことは難しい。相手がそんな手に乗ってくるはずがありません。
持久戦に陥れば持たざる国は徐々に敗勢に陥っていく。

 片山曰く、殲滅を逆から見れば玉砕である、と。
殲滅出来る可能性が乏しい敵と相対すれば、我が方が殲滅される、玉砕するしか無い、というのが我がウオードクトリン:密教部分の前提からの帰結、サルでも分かりそうな成り行きが見え見えですね。

  物量をもって勝敗が決した総力戦としての第一次世界大戦を親しく観戦し、これを踏まえて大戦略を構築することを課題とした陸軍が、結局、神がかり戦法に行き着いたのはなぜか、片山説は説得力があります。

 教訓は、鏡の両面として顕・密両方相まってはじめて所期の機能を果たすべく構想された 「申しあわせと立て前」 は、代を経るにしたがってどんどん乖離、ついには「密」が「顕」によって放逐される可能性が高いこと。
次代の担い手はもっぱら『顕』を信じて育成されていますから。

  天皇機関説は追放され、陸軍皇道派は失脚しました。
密・顕双方がうまく機能してはじめて所期の成果が得られる、という大方針なのに、一方が存在しなくなればたちまち全体としての機能喪失、目的を達することは出来ません。

 “申しあわせ”と“立て前”を作り、両者の使い分けでことをうまく進めようという手法は、なかなか優れた方法のようにも見えますが、一旦、前提としている条件が崩れるとたちまち全体が崩壊、目的を達成出来なくなる可能性が高い。


 さて、我が中心市街地活性化に“顕教と密教”アプローチを援用すると何が見えてくるでしょうか?
今日のデイリィフラッシュ、ここからが本論です。

中心市街地活性化の目的は、中活法第二条「中心市街地の三要件」を踏まえれば、維持に支障をきたしている商業街区に持続可能性を構築すること、です。ここから「中心市街地活性化とは当該市街地における都市機能の増進と経済活力の向上」という定義が導かれるわけですね。

 以上を踏まえてスキームを見ると、これは目的を達成するための「密教―顕教」構造になっていると見ることが出来ます。

密教(申しあわせ)
 中心市街地とは、都市中心部の商業街区(商店街)のこと、その活性化とは中心商店街の活性化、多種多様な商業集積と伍して持続するためのショッピングモールに見立てた再構築である。

 言うまでも無く、一般に法律では理論的説明的事項は“前提事項”であり、条文からは排除されています。それを補完するのが「基本方針」ですが、『中活法』の場合、「第7章:・・・商業の活性化のための事業及び措置」は、担当者に商業についての知識並びに中小小売商業振興法以来の施策の歴史的総括を前提条件として求めています。
この条件を備えていない人がいくら一所懸命読んでもその本旨に基づいて活性化計画を作成し、運用していくことは不可能です。
新しく担当セクションに配置された人、前提条件を具備していない人は、「勉強」が必要です。しかし、市販の専門書等でその前提条件修得という課題に適した内容を備えたものがあるかどうか。

  一方、顕教(立て前)は:
中心市街地とは文字どおり都市の中心部のことであり、活性化とは都市中心部に位置する都市機能の増進及び経済活力の向上。

  改正以降は、商業の活性化が進展しないことも相まって、“歩いて暮らせるまちづくり”、目標は“コンパクトシティ”とエスカレートし、「持たざる国」時代の顕教同様、スキームと合致しない大きな構想・目的を掲げてしまった都市・『基本計画』も少なくありません。目標も“密教的:商店街のショッピングモールとしての再構築”は雲散霧消、「歴史と景観」、「人々が行き交うにぎわいのまち」等々、誰も反対しないが、どこからどう手をつけてどこに至ろうとするのか、曖昧模糊とした計画のもと、個別事業が前後との関係も定かで無いまま、延々と続けられ今日に至っている・・・。

  壮大な目標も都市の将来のため、―激変する環境に対応し持続可能性を再構築する― 長期的、総合的な構想・計画が必要であることは言うまでも無いこと、誰も否定する人はいませんね。
しかし、『中活法』のスキームで対応出来ることは限られており、都市全体のあり方についての長期的・全体的な取組を構想する道具として適しているとは思われません。
スキームとしての所定の範囲を超えて、都市中心部全体ひいては都市そのものの将来を左右する取組の計画―実施をこのスキームに託することができるものかどうか、誰でも自分自身のアタマを使って素直に吟味すればすぐ分かるはずですが・・・。

 「中心市街地活性化」(言うまでも無く、「中心」「市街地」「活性化」はそれぞれ普通名詞ですが、中活法のスキームで用いられている「中心市街地活性化」は、三つの普通名詞の意味を足し算したものではありません。
(参照『中活法』2条“中心市街地の三要件」)

  「中心市街地活性化」という顕教的テーマを掲げつつ、「商店街の活性化」を密教的目的としている『中活法』のスキームを活用するには“関係各方面には商店街を活性化していくために必要な能力を潜在的に持っている”ことが前提になります。
商店街は、関係各方面、とりわけ商業者が持っている能力の発揮を阻害している条件を取り除けば活性化するのだから、能力の発揮を阻んでいる条件を取り除くことが“活性化”の主要な目標となるわけです。
その一例が“通行量の減少”ですね。

  商業者がその能力を発揮して繁盛を維持出来ないのは、店前通行量が減少しているからだ(すなわち立地条件が悪化しているから)、通行量が増えれば(立地条件が改善されれば)立地する各個店のオーナーは、それぞれ持ち前の潜在能力を発揮して繁盛を再現することが出来る。
これが、顕教レベルの前提です。

  活性化事業推進の効果が挙がらず、各級支援機関の担当者が代替わりしていく中で、明文化されていない・スキームの隠れた目的は次第に承継されなくなり、(密教として)主題であった商業・商店街活性化は one of them のポジションに移動され、スキームは「顕教」一本、“通行量が増えれば中心市街地は活性化する”という大前提のみが関係各方面に共有された結果、各種都市
機能を増進させ、通行量を増やせば中心市街地は活性化する、にぎわいが創出できる、結果として商店街も活性化出来る(だろう)という漠然とした“方向”が浮上・共有され、個別事業が脈絡抜きで取り組まれる・・・という成り行きが現れます。
  取組が「顕教」一本槍になったのは、もはや商店街は商業施策のみでは活性化出来ない、という商振法―商店街別に取り組んだ高度化事業についての苦い総括があったからかも知れません。

 さて、活性化の取り組みの現状はどうなっているか?
理解が共有されていない法律用語としての「中心市街地活性化」はひとまずカッコに入れ、「商店街活性化」について見ていきましょう。

 商店街活性化、現下の取組は、
密 教:商業集積としての持続可能性の再構築
顕 教:“通行量の増大”“コミュニティの担い手”商店街の持続はコミュニティ持続に不可欠
と構想されていますが、漸次、取組が「顕教」に大きくシフトしていることはご承知のとおりです。

 ここでもう一度「密教(申しあわせ)・顕教(立て前)理論」で考えて見ましょう。

密 教:商店街活性化=ショッピングモールとしての再構築
顕 教:“コミュニティの担い手”としての商店街の存続

 このような見方は当社に限ったものではありません。
たとえば:石原武政, 西村幸夫 (編集)『まちづくりを学ぶ』有斐閣2010

  「立て前」 としての “コミュニティの担い手” が、「申しあわせ」を 無視して「活性化実現の方法」として推進されると何が起こるか?
衰退趨勢に陥っている商店街にコミュニティの諸問題の解決者としての振舞いを求めることになります。事実、活性化策の行き詰まりに悩む多くの商店街が、所属する各個店群の現状・問題状況に関係なく、“コミュニティの担い手”としてのあり方を実現することで各個店の窮状を打開する、という可能性を信じて“担い手”として取り組むべき各種の事業を推進しています。
もちろん、これは “顕教” であり、密教的目的は “事業実施を通じて通行量・来街者を増やす”にあることは言うまでもありません。
しかし、果たしてこの「密―顕」的構想は、本来の目的を達成出来る方向で立てられているのでしょうか?

  改めて検討は、“来街者が増えれば商店街は活性化するか”、言い換えれば“店前通行量が増えれば入店客・買上客が増えるか”ということ、さらに“各個店は店前通行量を入店―買上客に転換する能力を持っているのか”ということも検討してみなければならない。
能力を持っているかどうか、大いに疑問ですね。

  “通行量”として招聘するのは日頃商店街にショッピングに来ない人たち、すなわち日頃ショッピング行き先として商店街以外の店舗・商業集積を使っている人たち、です。

 この人達が、来街促進事業等に誘われて来街したとして、各個店に入店しショッピングをしてくれるどうか、もししてくれたとして、これを契機として明日、明後日と引き続きショッピングに来てくれるようになるものかどうか・・・。
もちろん、これが出来ないと商店街活性化は実現出来ませんが・・・。

  ここで改めて問われるのが個別商業者の潜在得能力です。商店街立地の商業者はおしなべて店前通行者を自店の得意客に転換する能力を持っているだろうか?ということですね。
この能力が無ければ、通行量が増えてもショッピング客の増加は実現出来ず、事業取組は進展しても各個店の窮状は改善されず、いっそう深刻化することさえ懸念されます。
 
「商店街実態調査」と言う名目で実施されるアンケートにおいて、商店街が直面する問題として、
①魅力ある店舗が少ない
②後継者がいない
と他人事のような回答(弁解)を連ねて、恥とも思わない純真無垢なレベルで、通行量を開門客に転化させることができるだろうか、“コミュニティ”を“担う”
ことが出来るものかどうか。
ちょっと立ち止まって考えて見ればすぐ分かると思いますが。

 “魅力ある店舗が少ない”は、店に魅力を作り出すことが出来ない”ということであり、同じく“後継者がいない”は、“承継させるほど魅力のある商売ではない”ことの告白かも知れませんね。

 にもかかわらず、“みんなで渡れば怖くない”のかどうか、何ごとも一線を越えると“もうどうにもとまらない”となるのは、眼前する問題の抜本的解決を先送りするための方策として“顕教・密教的区分”を採用する列島的方法の「業」かも知れません。

  このように考えてくると、結局、商店街活性化が実現出来ないのは、“商店街は外部条件を整備すれば活性化出来る”というそもそもの大前提、スタート時点において大きな誤解をしており、その取組は大きな誤解のもとに構想、組み立てられている、ということになりますね。

 “商店街は、自身を活性化するために必要な能力を持っていないのでは無いか?”
にもかかわらず、“持っている”ことを前提にして「活性化への道」を構想しているとすれば、その道が活性化の実現=商売繁盛の実現につながることはまずあり得ません。
商店街の商売繁盛とは、ぶっちゃけ、郊外型商業集積(チェーンストア集積)からお客を奪還することですから、相当の能力を有することはいうまでもありません。能力が不足しているとすればこれを充足しなければならないわけですが、まずは商店街の皆さんは所要の能力を持っているだろうか、ということが問われます。

 持っているとすれば、その能力はどのようなもので・いつ・どこで・いかなる方法で獲得したのか・・・?

 商店街活性化に取り組む商業者は、外部の諸条件が整えばそれをうまく活用して繁盛を実現することができるのだろうか? 彼らが考案し取り組んでいる各種の活性化策が事業としては成功しながら、活性化の実現には接近していないように見えるのはなぜか?

 しばらくこの大問題に取り組みたいと思います。

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  • 【キラリ輝く繁盛店づくり】
    お客に見える店づくり―見える化をテーマに【個店の繁盛】から【商店街活性化】、【中心市街地の商業集積としての再構築】まで一貫した取組を支援します。
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