幕末・幕府の有司

 新政府の「脱・幕藩体制プロバガンダ」もありまして、末期の幕府は人材払底していた、といつの間にか思い込んでいたりしますが、開国修好~富国強兵という明治政府の基本路線は、実は徳川末期、幕府によって敷かれていたわけで、新政府は好むと好まざるとに関わらず、これを漸進的に改良することが使命となったことは、歴史を振り返ってみれば明らかなわけですが、ではこの基本路線を準備したのは誰か、ということになりますと、このあたりは意識的に調べないと分かりません。
紆余曲折につじては、新しい知見が提出されています。
坂野潤治『未完の明治維新』ちくま選書 2007年

 先駆的に「開国修好」を担ったのは、幕府でありその実務はもちろん幕府の為政者~官僚が当たったわけですが、幕藩体制が開国修好で合意していたわけもなく、その推進には艱難がありました。

 実務を担った幕府官僚の維新後の身の処し方には、その一 隠棲、 その二 新政府に任官 その三 民間で活躍 と三通りがありますが、実は他にもう一つありまして、多くの有司が志半ばで病に倒れ、自分たちが敷いた「開国修好」の成果を見ることなく夭折しています。
 幕府旧臣で、維新後ジャーナリストとして活躍した福地源一郎は、明治33年、『幕末政治家』を著し、この基本路線の敷設に関わった人々を顕彰しています。
叙言に曰く「・・・もし一々これを観察すれば、その人物中、あるいは明治昭代の今日においても、得やすからざりしほどの材器ありしを信じるなり」。
 
 重点的に取りあげられている一人が岩瀬忠震(ただのり)。米国全権ハリスとの交渉に当たり、鎖国攘夷に固執する幕閣において一人断固として開国和親を唱え、外交路線の変更を主導しました。クライマックスは、伊井大老政権下における日米修好条約の締結で岩瀬は幕府全権として調印します。伊井は後に「岩瀬に騙された」と激怒するのですが・・・。伊井との確執は、幕府基本路線の選択をめぐり将軍家承継問題に参画し、大老との対立が決定的となり、ついに安政の大獄に連座して官職を追われ、地位を簒奪されます。蟄居のうちに卒去。享年53才。ちなみに横浜開港は(本当は)岩瀬の仕事です。
 この人に引き立てられ、遣米使節の副使兼軍艦奉行として赴いたのが 木村喜毅。 そもそも遣米使節は岩瀬のアイデアで、当初はみずからこの任に当たるつもりでしたが、官職追放で果たせませんでした。

遣米使節

正使 新見正興の一行は米艦ポーハタン号に乗艦、副使・軍艦奉行 木村喜毅は咸臨丸で別行動です。咸臨丸には木村「提督」のもと、「船将」として勝麟太郎、通訳としてジョン万次郎、さらに木村の従者となって参加した臼杵藩士福沢諭吉(ただし、これは名義を借りたもので実際は自費参加)がありまして、福沢・勝 両者生涯の関係はここに端を発しています。

 ちなみに福沢諭吉は後年、木村の著作に序文を寄せ、末尾に「木村旧軍艦奉行の従僕福沢諭吉」と記名しています。諭吉は終生ほとんど序文のたぐいを好まなかったといわれていますが、「封建制度は親の敵」のはずの福沢の「従僕」という自著は、木村との交流のありかた、木村の人となり、二人の終生の交友を物語ってあまりあるところです。

 勝と福沢の二人は咸臨丸船上ではじめて相まみえるのですが、咸臨丸の名目上の船長・勝に対する福沢の所感は『福翁自伝』に。以来、陰陽の確執が続き、福沢による『痩せ我慢の記』の執筆、勝の応答に至ります。

 そもそも勝海舟と榎本武揚を名指しした「痩せ我慢の記」が書かれたのは、後に駿河湾に沈んだ咸臨丸乗組員の慰霊碑(清水市 清水寺 清水の次郎長建立)に榎本武揚が「その人に食する者はその人のことに死す」と書いていた。実は五稜郭落城後、処刑されるはずだった彼が助命されたのは、知人に依頼された福沢の機略によるものでしたが、一日、清水寺に遊んだ福沢はこの書をみて「おまえが言うか!」と怒ったことに端を発するそうですが、榎本に限らず幕府旧臣の新政府への任官、立身については憮然たる思いを禁じ得ず、勝との間には咸臨丸以来の経緯がある・・・、ということで、これに西南の役の非命に倒れた西郷隆盛を論じた『丁丑公論』を併せて出したところに、ご一新後、官途に就かなかった福沢諭吉の一面が伺われます。

 なにやら、タイトルとはかけ離れた話になってしまいましたが、幕末の対立は、表面上は攘夷vs開国が基軸でしたが、必ずしも尊皇攘夷vs佐幕開国という単純なものではありませんでした。国際情勢をいち早く見極め、開国修好・富国強兵こそが国を安全ならしめる道であるとして、幾多の障碍を乗り越えて邁進、開国の基礎を開いたのは、幕府の有司であったことは紛れもない事実であり、かつ、その多くが開国の大業半ばにしてあるいは失脚、あるいは夭折、全うできなかったことへの憾みは、官途に就くことを肯んじなかった人に限られるものではないようです。

 維新後、かって尊皇攘夷を胸に東奔西走した志士の多くは、「文明開花」という空恐ろしい標語に象徴される時代を迎えることになりまして、もちろん、徳川幕府などは「非・文明・封建暗黒社会」となるなかで、有司懸命に敷設した開国路線は換骨奪胎されました。
もちろん、薩長のリーダーなどは早くから「開国」~富国強兵を胸底深く秘めていたわけですが、それはあくまでもごく限られたところで、「話が違う」と乱に走った尊王攘夷派は諸処に鎮圧され、ちゃらちゃら鹿鳴館・和魂洋才などという妄語をスローガンに「誰も計画しなかった」“万国無比』の体制が出来上がっていくわけです。(「出来上がった」のであって「作られた」わけではない)

 今日、「戦後レジュームからの脱却」とかいう超過激路線が唱えられたりしていますが、脱却してどこへ向かうのか、復古しようにも立ち返り先になるような体制なんか無いんですけど。
 そもそも、封建レジュームからの脱却を標榜し、「根底的改革」を目指した明治政府がどれくらい「レジュームの改革」に成功したか、ということはレジュームをどう見るか、ということに掛かっているのでありまして、まずは「レジューム」を定義する、それも“なるべく具体的に・なるべく客観的に”ということが要請されますね。

 “体制脱却”の予期できない波及効果を懸念するところから、「漸進改良」を基本とするはずの保守政党が「体制からの脱却」を声高に主張するとは、“石が沈み木の葉が流れる”まんまですね。

 もちろん、保守を標榜する人は軽々に「レジュームからの脱却」などは口走らないというのが基本中の基本です。
「レジューム脱却」は、古今東西、過激派の主張。

休日のひととき、いつもとはちょっと違う記事をご覧にいれました。 
興味のある人に参考となる本を。有名どころが主ですが。

福地櫻痴『幕末政治家』岩波文庫

森 健次『暁 星』文芸社

土井良三『軍艦奉行木村摂津守

福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫

福沢諭吉『丁丑公論・痩我慢の記』岩波文庫

清水寺の逸話の紹介:
谷沢永一『書物耽溺

読書耽溺、さらに突き進みたい人は:
 同 『紙つぶて』自作自注最終版

※この記事は、クオールエイドサイトの〈日曜日〉向け記事に加筆したものです。

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Re: 副使木村喜毅は誤りです

ご笑読いただき有り難うございます。

ご指摘の件につきまして。

遣米使節団の正使一行は、米艦ポーハタン号に座乗しましたが、「別船」として咸臨丸が用意され,軍艦奉行木村摂津守が副使として派遣されています。正使一行に万一のことがあった場合に備えてのことだったとのことです。
訪米中は終始正使一行とは別行動だったようです。
土井良三「軍艦奉行木村摂津守」中公文書

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