『恋愛と贅沢と資本主義』

 マックス・ヴェーバーの仕事仲間にしてライバルであったヴェルナー・ゾンバルトの著作です。
ヴェーバーによるプロテスタントの理念に基づく勤勉・蓄積が資本主義の原点だとする主張に対して、王侯貴族の贅沢とりわけ非合法の恋愛こそがそれを起動させた商業者、手工業者に利潤の蓄積を可能にし、彼らの資本家への移行を可能にした原動力だった、ということで、贅沢が資本主義を生んだ、という説です。

 成金・ブルジョアジーにによる王侯貴族のライフスタイルの模倣・普及トリクルダウンのプロセスが資本主義的市場経済を拡大したわけです。

 当サイトは、脱資本主義の方向と方法としてラグジュアリィ=時間堪能を提唱しています。
資本主義の行き詰まり=もの余り店あまりを踏まえた贅沢は、あれこれのセレブ御用達ブランドを所有することではなく、それぞれが「価値」を置く時間を自分らしく演出し堪能することを意味します。
ラグジュアリィ=時間堪能ですね。
その向かうところはどこか?

 たぶん、ものを所有することで満足を感じる、という精神からははるかに離れたところであることは間違いありません。

 という方向へ日本などが真っ先に移行していかないと、BRICSなどが「先進国的所有の快感」の実現などをめざそうものなら、地球は幾つあっても足りません。
たぶん、わが国はその伝統もあって「時間堪能」にもっとも敏感な社会だと思います。
「しつらえ」などはその好例でしょう。

 他に先駆けて時間堪能型社会への移行を実践することで新しい持続可能なライフスタイルのプロトタイプを作り発信すること。
ひょっとするとこれこそわが国の新しい事業機会、マーケティングテーマであり、地球に対する使命かも知れません。

 ということで、時間堪能・ラグジュアリィは繁盛店づくりのテーマであるとともに中心市街地活性化の方向及び方法であり、脱工業社会をめざす実践の導きです。
大風呂敷ですが、これくらいのことは考えておかないと、「地核変動期」の中心市街地活性化は成功しないかも知れません。
少なくとも、工業社会の遺物であるショッピングセンターに追随しているようでは活性化は夢のまた夢に終わることは間違いなし。

 ということで世間ではケインズ再評価という声が盛んですが、何をおっしゃる、地核変動期を乗り切るのはゾンバルト的贅沢理論の現代バージョン・“見せびらかしから時間堪能へ”です。

参考:地核変動期の経済を理解し、戦略を構想するという役割には既存の経済学では無力です。
参考になるのはこれまで主流かr異端視されていた人たちの苦闘の跡。
ゾンバルトには『戦争と資本主義』(論創社 1996年)があります。
未読ですが『ブルジョワ―近代経済人の精神史』や『ブルジョア―近代経済人の精神史』を手配中。
ヴェヴレン、K・ポラニー、バタイユ、エマニュエル・トッド、ハーシュマン・・・・。
国内では
村上泰亮『反古典の政治経済学上下』(中央公論社 1992年)
佐伯啓思『貨幣・欲望・資本主義』(新書館 2000年)など

地核変動の時代であることを説明していますが、これから向かうべき「方向と方法」については残念ながら。
これは実践の中から出てくるものなんでしょうね。

「愚行」を理解する

 “賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ”とはよく知られた警句ですが、認識の範囲や精度は着実に高まるのに、、愚かな行為はなぜ繰り返されるのか?
失敗を許されない「都市経営」の遂行にあたっては、歴史に学び・教訓を理論化し、組織的に共有することが必要です。
スタートは、もちろん自分自身の啓蒙です。

 先人による「デス・マーチング:愚行の行進」の分析

□バーバラ・タックマン『愚行の世界史』(朝日新聞社 1987年)
人間にとって「愚行」とは何か?
4項目を定義し、トロイの戦争からベトナム戦争まで、「愚行」を内在的に分析しています。

□野中郁次郎他『失敗の本質』(ダイヤモンド社 昭和59年)
勝ち目のない戦争をしたということと、その戦争の戦い方とを区別し、後者について“負けるべくして負けた”その戦い方と負け方を分析。
ただし、「戦略」という概念の定義が明晰でなのため、適切な「教訓」を獲得するレベルに至っていませんが・・・。

□児島襄『誤算の論理』(文芸春秋 昭和62年)

もちろん、
□山本七平『一下級将校のみた日本陸軍(上下)』(朝日新聞社 1976年)
□ 同  『私の中の日本軍』(朝日新聞社 1976年)
□ 同  『空気の研究』(文芸春秋社 1977年)  

変わったところで
□エドワード・ヨードン『デス・マーチ』(トッパン 1997年)
ソフトウエア開発プロセスの「愚行」の発生メカニズムの分析から「愚行の一般理論」へ。

で、愚行防止に関する教訓の第一は、やはり「啓蒙力の強化向上」ということではないでしょうか。
「啓蒙力+勇気」=教養と考えれば、教養の向上。

 大東亜戦争末期、文系の学生は学徒出陣で最前線(ただし、官系は短期現役主計科士官など温存、理系は徴兵猶予という措置が取られ、結果、戦後復興は「官系と理系」をリーダーとして進むことになった、つまり、大東亜戦争によって教養系は断絶、復興を推進したのは官と理であり、以来現在に至っている、と喝破しているのは、

□保坂正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書 2005年)
“優秀な連中はみんな戦争で死んだ”と述懐する人が多かったそうですが、ん?、すると今生きているわれわれは・・・?

 ということで、愚行を阻むには「教養」が必須ですが、お得意の生産ラインで対応できる課題ではありません。
「地方分権」最大の課題ですが、果たして問題は自覚されているでしょうか。
気になるところです。

“誤算は期待から生まれる”といったのはリデル・ハートですが、とはいうものの期待無くして意欲・行動を組織することは出来ません。
だからといって「期待」は「資源」でも「選択肢」でもな意という冷厳な事実を忘れるとそこから「愚行」が生まれてくる、ということでしょうか。
期待は即色メガネであることを忘れると、デス・ダイビングへの道であるということをキモに銘じておくことが大切ですね。

マックス・ヴェーバーの精神

 あるとき、新聞を見て“新興ブルジョアジーにはプロテスタントが多い”ということに気づき、その理由を説こうとして書かれたのが名著の誉れも高い『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』です。

 プロテスタントの倫理と資本主義の精神の親近性を論証するために彼が利用したのが、プロテスタント・カルヴァン派の「倫理」と資本主義代表:ベンジャミン・フランクリンの「自伝」です。両者の親近性を論じることで、プロテスタントにブルジョアジーが多い理由を説明した、ということですが疑義があります。

 第一、そもそもブルジョアジーこと当時の工場主などにプロテスタントが多かったのは、その前身である手工業者・職人などの階層にプロテスタント信者が多かったからではないか?

第二、ベンジャミンフランクリンの自伝の内容がなぜ「資本主義の精神」の理念・代表として適切なのか?
代表選定の手続きはどう進められたか、といいますと手続きは一切ないまま、突然、フランクリンの自伝が資本主義の精神の代表として持ち出されています。
そのあげく、プロテスタントの理念があったからこそ資本主義が成立した、とまで言い出します。

 ヴェーバー的には両者の親近性を論証したつもりなのですが、その手続きはチャチというかとても学問とは思われません。
資本主義の精神というなら、その要件を示したうえでフランクリンの自伝に表されている彼の「精神」が資本主義の精神のモデルそのものであることを立証してからにしなければならないわけですが、こういう手続きをまったくとっていないのがこの論文の特徴です。

 どうしてこういう本が名著であり、ヴェーバーが大学者なのかさっぱり分かりません。

 資本主義の精神といえば、百貨店を発明したプシコー夫妻などは資本主義のカガミだと思いますが、夫妻もプロテスタントだったのでしょうかしらね。
いずれにせよ夫妻の経営実践は資本主義の精神の現れであるとしてた場合、それはフランクリン的精神とどう関わりがあるのか?
夫妻の経営実践に「鉄の檻」はどう影響しているか?
という興味深い問題がありまして、ヴェーバーさん、フランクリンではなく、プシコーをモデルにしたら良かったろうに、と思ったりする今日この頃です。

 いつぞや【理論創発】で取り上げた羽入辰郎『マックス・ヴェバーの犯罪』は、両者の親近性を論証するにあたって、ヴェーバーは、聖書に関する文献学的歪曲と「精神」についての自伝の引用の双方について「鉛筆を舐めている」ということを論証批判したものですが、上述のとおり、たとえヴェーバーが鉛筆を舐めていなくとも、彼の「論証」はまったく論証になっていないではないか、ということです。

 で、当記事とサイトとの関係は、といいますと啓蒙力の強化には他人の言説の批判が有効、というカントさんの教えの実行ということで。

 さらに、脱資本主義というか脱工業主義というかそのあたりの課題への取り組みとしても「資本主義」の今どき風味の解明は喫緊の課題だということで。

「個店支援」という課題

 なるほど、個別商業者の金儲けの支援に公的資金を使うのはおかしい、という意見もよく分かるのですが。

 他方、そいじゃほったらかしておいて空店舗になったらどうする?という問題もあるわけで、事実、現在空店舗になっている物件の多くは、個店のことは個店の自己責任で、というスタンスの結果だとみることも出来ます。
商売している間は自己責任、空店舗になったら補助金を使ってなんとかしなくちゃ、ということで家賃補助というのはなんかおかしくないですか?

 そんなことなら空店舗になる前に、空店舗にせずにすむよう・繁盛するようにしっかり支援をした方が良かったのではないか、という考え方も出来ますね。

 問題は、今どきの商店街で繁盛するためにはどうしたらよいか?
ということでありまして、日本全国の商店街という商店街、商業者という商業者が“売れない、どうしたらよいか分からない”とアタマを抱えている時に、売れなくて困っている人はみんな“自助努力で頑張れ”ということですが、そう言うことを平気で言う人はきっと“商店街のお店はこうすれば売れる”ということがよく分かっていて、かつ、知らない商業者は自力で頑張ってそれを掴め、とおっしゃっているのでしょうね、たぶん。

 そんなことを言う人、言わないが内心思っている人は、「商店街立地の小売店はこうすれば補助など得なくても繁盛できる」という「商売繁盛法」をもったいぶらずに是非皆さんに教えてあげてください。
その分にはきっと公的資金は必要ないでしょうから。

 空店舗の例でお分かりのように、商業者はいざ廃業すると決めれば後はさっぱりしたものです。シャッターをおろし、鍵を掛ければそれで商店街とはおさらば、ですからね。
その後困るのは、“中心市街地・商店街を活性化しなければならないが、個店の支援は出来ない”と言い張る関係各方面の皆さんではないでしょうか。

 支援といっても何もあなた、仕入れ資金を補助せよとか、従業員の人件費を補助せよというのではありません。
今どきの商店街で繁盛するにはどうしたらよいか、日本中の商業者がみんな行き詰まっている問題への取り組みについて、取り組みのあるべき方向と方法を理解し、実際に取り組んでいくために必要な「勉強」の機会を提供したら如何でしょうね、ということです。

 日本中の商業者が解決できない課題をあなたのまちの商業者に“個店が儲かる方法など支援は出来ない・自分で頑張れ”というスタンスで目的である「中心市街地・商業の活性化」を実現することが出来ますか?
諸々の補助対象事業に取り組んでいる間も、商業者は次々に着実に脱落しているのですが・・・。

 上述のとおり、商業者は営業中はどんなに苦しくても、いざ廃業してしまえばそれでお終い、商店街で商売を続ける「苦しさ」からは脱却することが出来ます。その分、商売を続けている人・続けたい人の課題はさらに重くなるわけです。

 こういう事情が分かった以上、せっかく営業しているお店を廃業させるわけには行かないのではないでしょうか。頑張りたい人にはなんとか頑張られる条件を作ってあげるべきではないでしょうか。
頑張る気持が乏しくなっている人もはげましたり、おどしたりW、なんとか商売を続けてもらう、その気になってもらうことが「中心市街地・商店街活性化のイロハではないでしょうか。

 それは本人のためであることはもちろんですが、商店街全体のため、中心市街地全体のため、でもあるわけです。

 関係各方面にはよく“やる気のない商業者はさっさと廃業しろ”と元気いっぱいの人が見かけられますが、空店舗になったらアナタ、自分で活用できる自信がありますか?
日本全国、空店舗への対応に困っているところばかりですが、ホントにこれ以上空店舗が増えてもよろしい?

 ということで、この時期の商店街活性化策、最優先のテーマは既存商業者がその気になって取り組む「繁盛店づくりの方向と方法」を周知徹底することです・
それとも、これ以外になにかありますか?

 いくら立派なハードの施設を作って消費者をビックリさせても、それで売り上げが増えることはありません。それが売り上げにつながるためには、個々のお店の売場にお客が「買いたい商品・欲しくなる商品」が陳列提供されていなければならない。
この条件が揃わない限り、いくら補助金を使っても売り上げは作れません。ものが売れない商店街活性化なんて悪い冗談、笑いたくても笑えない類の冗談ですね。

 繰り返しますが、日本全国の商業者が活性化への道が分からず行き詰まっているときに、個店のこと・シャッターの内側のことは個店の責任だ、個店の繁盛に関わるようなお金はびた一文使わない、という従来的取り組みでホントに商店街の空洞化を抑え、反転、繁盛店が立ち並ぶ街並みへとどうして変貌させるというのですか?

 個店の支援は出来ない、という人はその言葉に続けて“商店街立地の個店はこうすれば繁盛店になれる”という方向と方法を提示して、商業者に納得してもらわなければならない。
そうですよね?

 もちろん、それが出来るレベルの人がもしいたとしても、その人は絶対に“個店のことは個店の自己責任で”などということは言わないはずです。

 個店の繁盛店づくりを支援するのか、それとも商店街の活性化を諦めるか、今や問題はこのように立てるべきだと思われますが、如何でしょうか。

“所有と利用の分離”は大難問

 まちづくり会社が当該街区の土地を一括借り上げ、所要の施設整備をした上でテナントリーシングをする、という手法ですね。
土地代が事業費に出てこない分、賃借料が下がりテナント募集がしやすい、というメリットがあるそうです。
土地を貸す側にとってのメリットは、従来は相対で貸借していたものを会社が一括借り上げ、かつ、賃借責任を負ってくれるということです。

 ご承知のとおり、目下高松市丸亀町商店街で成功裏に推進されています。ただし、現時点で成功しているのは現時点においてテナントはすべて埋まっている、という意味です。

 というのはほかでもありません。
スタート時点で満タンになっているテナントが、ずうっと満タンのままで行ければいいのですが、その保証はまったくありません。
もちろん、不採算レベルに陥ったテナントには退去してもらうことになりますが、問題はその後釜に据えるべきテナントが右から左へ調達できるだろうか、ということです。

 退出したテナントの後を埋める新しいテナントを調達できない、空きスペースが埋まらず商店街同様空洞化が始まっている、というのはすでに郊外の大型ショッピングセンターで普通に起きている事態です。
当初はコミュニティスペースに使うなど工夫していますが、どんどん増えてくるとどうしようもありません。ペンキを塗ったベニヤに「新テナント・comming soon」などと書いて、放置することになります。それを見て出店に応募するところがあるかどうか・・・。

 商店街の「所有と利用の分離」が劣化スパイラルに陥っている一部SCの轍を踏まないためには、計画段階で「業種揃え・店揃えの最適化」についての計画=テナントミックス計画を周到に立てておくことが必要です。

 ここでいうテナントミックスとは、具体的にどこを誘致するかという作業以前の話であって建設計画のことではありません。この事業に取り組むことで商店街に実現をめざすのは、どういう性格の商業集積なのか?、それは広域商圏における既存及び今後進出して来るであろう商業集積ととのような関係に位置するのか?
ということをしっかり定め、めざす商業集積を実現するために必要な「業種・店舗」を構想し、構想に合致する店舗・企業のリストを作り、テナントとしてリクルートする、という段取りになります。

 武運つたなく退出するテナントの後には、商業集積としての機能を実現していく上で、出ていった企業以上の力量を発揮してくれるテナントをリクルートしなければならない。
そういうテナントはきっと「引く手あまた」のはずですからおいそれとアナタの誘いに応じてくれるかどうか・・・。

 以上、簡単に見てきたとおり、「所有と利用の分離」を推進するまちづくり会社の仕事は、スタート時点でフルハウスにすることは当然ですが、さらに今後ずうっと引き続いて「商業集積としてのデスティネーション」を維持・拡充していく、という仕事があり、責任があるわけです。
もちろん、不採算に陥ったテナントが退出するのを手を拱いて見ているわけにはいきません。中にはこれでずうっと商店街で仲間だったお店もあることでしょうし。

 まちづくり会社は、構築したデスティネーションを不断に維持していくためには、テナント各社の「業容」の維持改善について適時適切な支援指導をしなければならない。
すなわち「落ちこぼれ」が生じないように不断の指導支援をしていく力量が必要であり、その力量はもちろん具体的な個々人によって担われるわけですから、まちづくり会社はしかるべき組織を構想し、しかるべき人材を確保しておかなければならない。事業着手以前の問題です。

 これは対象となる商業集積が街区であるか単一の施設であるかに関係なく、「所有と利用の分離」を掲げたとたん、まちづくり会社が担わなければならない運命であることに反論の余地はないと思います。

 如何ですか。
“所有と利用の分離”の採用を考える、といったとたん、この記事の冒頭からここまでの流れを一瞬のうちに思い浮かべ、かつ、局面ごとの基本的な課題とその処理についての基本が右から左へ、自分の脳内でスラスラとイメージできるようでないと、このモデルの採用は無理です。

 ちなみに、ショッピングセンターのテナントミックスも理論的にはかくあるべきなのですが、実状はお寒い限り、SCのテナントミックスマネジメントのスキルなどをあてにしているととんでもないことになってしまいます。

 ということですから、“不動産の所有と利用の分離”に取り組んでみたい人は、それなりの覚悟が必要ですよね、ということでありまして、転勤のあるサラリーマンさんが思いつきで企画できるような話ではないと言うことを分かっていただけたことと思いますが如何でしょうか。

商人塾的ラグジュアリィショップの今どき

 ご承知のとおり、当社提唱の商人塾の繁盛店づくりは、“ラグジュアリィショップ”への業容転換をめざします。
ラグジュアリィショップとは、多様な要因で成り立っている購買動機のうち、“自分自身の好み”が優位を占めるショッピングニーズに対応する業容を提供するお店です。

 当社流では、“不況になればお客はラグジュアリィショップに集中する”という仮説が成立するのでありまして、その根拠については最近どこかで書きました。
このところ、商人塾に参加している人からリアルでも掲示板でも「売り上げ好調」という報告が寄せられておりまして、あらためて不況とラグジュアリィの関係についての仮説に確信を持った次第です。

 昨日も商人塾掲示板に上記の例証となる塾生さんの書き込みがあったので、転載をお願いしているところです。

 ラグジュアリィショップは、
①商店街立地の既存個店が
②業種・店舗規模・スタッフなど従来のまま、
③品揃え・サービス・内外環境を工夫することで
④これまでの延長では考えられない売り上げを実現する
⑤無理せず達成する
という、今どき普通に考えたのでは「あり得ないこと」を実現するものです。
業種を問わず成功事例が出ていますが、成功している人で業種・店舗規模・立地などを変えた人は一人もいません。
繁盛の成否はそういうことには関係ない、ということですね。

 塾生は、自分のお店の繁盛を実現するばかりではなく、中心市街地・商店街活性化について、
①やれば出来る
②既存商業者の自助努力及びその組織化が原動力だ
ということを実証し、実践の先頭に立ちます。

 いいことづくめのようですが、実際には思わぬ障碍・隘路が発生するケースがあります。
商人塾が標榜する点から線、線から面への展開には関係各方面との連携が不可欠ですが、自立的な商業者による従来例のない実践は時に関係各方面の「専門家」を自負する人たちと軋轢を生じたりします。関係各方面には商業者の自立が遅れていた当時の既得権限(指導的ポジション)を維持したいという担当者がいたりして、何かと足を引っ張ったりするわけです。自分が関わっていないところでものごとが進むのが面白くないらしい。それやこれやでギクシャクしているとアッという間に半年・一年と足踏みすることになります。
この時期の半年・一年はかけがえのない時間です。
商人塾受講者のお店と未受講者のお店とのギャップがどんどん広がって行く・・・。

 ということで、今年は若干スタンスを変更して「隘路突破」に皆さんと知恵を出していきたいと思います。何しろ百年に一度の暴風雨が襲来している最中ですから、中心市街地界隈においても波風が起こるのも無理はないと覚悟しなければならない。

「暴風雨」か「地殻変動」か

 どのようなジャンルにおいてであれ、問題というものは当の本人が理解するレベルでの問題としてしか本人にとってはあり得ないわけで、人にとって問題はみずからの関心・力量の範囲でしかとらえることができない、という性質を持っています。

 米国の住宅バブルの崩壊を直接の契機としてだれの眼にも明らかとなった不況を「百年に一度の暴風雨」と称するわけですが、果たしてアナロジーとして適切かどうか。
暴風雨なら首をすくめて通り過ぎるのを待っていればいいのですが、果たしてバブル崩壊は「台風一過・秋晴れの良い日和」となるものかどうか。

 こういうレトリックを使う人は、無意識のうちに、そうであって欲しい、と願っているのかも知れません。
そうすると、その行動も一過性の嵐が通り過ぎるのを待つ、という消極的な姿勢になるのではないか?
“とにかく、不況対策だ”と従来どおりのハード投資に取り組もうとしている政府のアタマの中もそういうことになっているのかも知れません。

 小売業に限っていえば、「もの余り・店あまり」という状況は、バブル崩壊のはるか以前から始まっているのでありまして、このことに着目しない活性化施策はすべて「ハズレ」になるのは当然です。
“ものが売れない”のは、“買いたいものがない”からか、“買いたいものはいろいろあるがお金が無い”からなのか。
“買いたいものが無い”のは、“現在の生活で満足している”からか、それとも“見ると欲しくなるようなものが売られていない”からなのか。

 大衆資本主義、消費資本主義など呼び方はいろいろですが、今日の経済は、消費者が「その気」にならないことにはどうにもなりません。補充的消費・昨日と同じ生活に昨日よりお金を掛けるという人はいませんから、新機軸の消費が提案されない限り、経済がショぼっていくのは当たり前です。
供給側は相変わらず「人並み」やら「差別化」やらを訴求すればなんとかなる、という経験則から脱却できないまま、“売れないのは景気のせい”と「台風一過」を期待しているわけですが、問題は待っている間に“景気のせいで会社がつぶれた”ということになってもいいのかどうか、ということでありまして、どうして売れないのか?ということについてはもう少し主体的に考えてみた方がいいのではないか。

 欲しいものがない・買いたいものがない、というのは恐るべき状況でありまして、従来の正統派経済・経済学の根幹を揺るがすことですね。
こういう状況があるとして、これを「暴風雨」と呼ぶのか、それとも消費購買行動の根幹に関わる生活ニーズという「経済の地殻」が変動していると考えるべきか。
 どう考えるかによって問題の解答はまるっきり違います。

 さて、あなたは「暴風雨」派ですか、それとも「地殻変動」派ですか?

 ちなみに当社流商人塾の参加店、「暴風雨」の最中にも関わらず、業容の転換に取り組みプラスのスパイラルへの移行に成功したお店の売り上げは「前年同月対比」ずうっとプラスで推移しているようです。
これは事態が暴風雨ならあり得ないことでありまして、結局起こっているのは「地核変動」であり、これに“商人塾的地核変動対策”で対応した結果、見事に的を射たということでしょう。
すなわち、起きているのは「暴風雨」ではなく「地核変動」であり、適切な対策を講じれば変動を機会にすることが出来ます。
他方、「暴風雨」と考えれば“首をすくめて通り過ぎるのを待つ”しか対策はありません。
あなたはどっちの見方を取りますか?

ものの見方が変わると当然ながら打つべき手が変わり、もちろん成果も変わりりますが。

丸亀商店街&マジで取り組む中心市街地活性化への道

 先週出掛けた高松市中心商店街の視察レポートを兼ねて、クオールエイドのサイト・、【都市経営】で取り組みます。

 “百聞は一見に如かず”と言いますが、これまで当サイトでtakeoが述べている高松市丸亀町商店街の問題情況については、とくに訂正を要するところはありません。ただし、まだ書いていない事柄については行ってはじめて分かったことも色々ありまして、そのあたりも含めてレポートします。
丸亀町商店街、行ったことのある人もまだ行っていない人も得ることがある考察をめざします。

 今回の視察では、三越~天満屋、アーケードについては田町の端まで完全踏破、「ゆめタウン高松」にも足を延ばしました。
考察の中心は、商都・高松市の中心市街地、そのまた中核に位置する丸亀町の問題情況について。全国の中心市街地・商店街が共通して直面している問題に丸亀町もまた直面していることを明らかにし、かつ、隘路打開の道を提案します。
端的にいって全国の中心商店街が直面している“事業に取り組んでも街が活性化出来ない”という状況は丸亀町にも共通しておりまして、丸亀町商店街が取り組み実現している方向で問題が解決される(=活性化が実現される)ことは難しい。
今回は、誰に頼まれたわけでもありませんが、これまでの取り組みを踏まえた「丸亀町商店街活性化への道」も提案したいと思います。当社が提案する「丸亀商店街・活性化への道」に共感出来る人・商店街・中心市街地は、それを採用することで丸亀町に追い付き・追い越すことも夢ではありません。

 【都市経営】での作業は、取り組みが停滞している中心市街地・商店街活性化、ホンキで取り組む・取り組みたい人には、多くの成果が得られるチャンスになると思います。
そうでない人にも「啓蒙力の強化は、批判を観察することから」というカント流に従えば、強化の機会になるかも知れません。

 どちら様もお誘い合わせの上、にぎにぎしくご来場下さいませ。

メイドインチャイナの殿堂・ショッピングモール

 本日、イオンモール筑紫野を見て来ました。

 長らく「ゆめタウン」の金城湯池であった地区への進出です。
久留米、佐賀などでゆめタウンの後塵を拝していたところ、いよいよ反転攻勢でしょうか。

 核店舗・JUSCOさん、売場は相変わらずの量販百貨店ぶり、イオンスタイルストアではスタッフがハンドマイクを「タイムサービス」を訴求していました。喧噪という言葉がピッタリ、今ごろありえねぇ、としばし見とれました。
「ジャスコスタイルストア」とはこういう3Aのことでしょうか。
こういう業容に「スタイルストア」って・・・・。

 そう言えばジャスコスタイルストアの切り札として打ち出されていたはずのフルハウスなどのインショップは一個も見あたりませんでした。
九州地区での展開はスタート当初のまま鹿児島、八幡東の2SCに止まっているようで、JUSCOにスタイルストアは見当違い、という当社の見立があたったのかも。

 かって、量販百貨店が全国を席巻した時代、これを評して「化繊の殿堂」と評した人がありましたが、今は昔、もちろん今ではナチュラル風味の自然素材の商品もいっぱい。
代わって名付けるなら標題のとおりではないでしょうか。

 日本全国、ほとんどの産業が国内工場を縮小・閉鎖(つまり日本人を馘首)して、海外に移転(つまり現地人を雇用)するという趨勢ですが、小売業は相変わらず国内消費者(つまり国内賃金所得)をあてに売り上げ増をめざしますが、売ろうとしている商品のほとんどはメイドイン海外。不思議でならないのは、海外製品を購買する原資は誰がどこで調達すると考えているのだろうか、ということです。
“企業は国を捨て人を捨てる”というのはグローバル資本主義のオキテかも知れませんが、その結果、行き着く先が“国内に消費者がいなくなる”ことは、だれの眼にも明らかでしょう。
ひょっとすると、“それはそうかも知れないが、うちだけは大目に見てもらいたい、何しろ会社の存続が掛かっているもので”というあたりが本音かも知れません。合成の誤謬。

 さらに、SCが進出する都市・地域に関して言えば。
当該都市で獲得した所得を吸収、本社所在地に移転させる仕組みがショッピングセンターの一面の機能です。
雇用とか、税収とか言いますが、その中味はみんな地元の所得を吸い上げる「手数料」程度。
流出するのはその何十倍もの地元の所得だ、ということもたまには考えてみるべきではないか、などと思うのは引かれ者の小唄?
もちろん、SCが全国水準の商品を安定供給するという社会的使命を果たしていることは間違いありませんが、既存路線の延長上で今後とも使命=事業機会を確保し続けられるかどうか、旨に手を当てて考えてみていただきたい。

 先日、大手家電メーカーで唯一黒字決算と報じられた三菱電機は、「地産地消」という経営戦略を採用しているとのこと、一国で販売する家電については当該国内で生産することを基本としているそうで、もちろん、日本国内で販売されている同社製品はすべて国産と言うことになります。グローバリゼーションとやらも「消費はそれぞれの国内において国民によって行われる」ということに着目した中長期の戦略としては当然のことではないでしょうか。
さらに、三菱電機では技術革新を牽引するマザー工場は国内にきっちり置いてあり、国内消費者の吟味に叶うメイドインジャパンのハロー効果を世界に及ぼしているわけで、この時期の企業の方針としてすばらしいですね。

 そろそろわが小売業界も、メイドインジャパンに進路を取るという「革新」の機会が眼前しているのではないでしょうか。
チャンレジャーは誰もでもよろしい、業績不振で困窮している百貨店などの中から、脱ブランド・国産品愛顧を戦略とする実験店舗などが出てくるといいですね。
中心市街地ぐるみの実験でも結構可能性は高いと思いますが、こちらは「体制」に問題がありそうです。
“百貨店ぐるみで挑戦する”と名乗りを挙げる中心市街地があってもおかしくないという客観的情勢ですが、いかんせん、主体の力量・基礎体力が圧倒的に不足しています。

 と言うことで、百年に一度という暴風雨のさなか、メイドインチャイナの殿堂に善男善女が集うという光景、このままでは需給両者とも早晩先細りとなることは確実ですが。

高松市丸亀商店街

  21~22日しっかり見てきました。
収穫は来週から【都市経営】でじっくりご披露します。

 同商店街については、すでに視察に行かれた人も多いと思います。そう言えば佐賀県からも大挙?出掛けたらしいです。
だがしかし。

 商店街の皆さんにとって、「先進商店街」の視察は年中行事の一つですが、“心ここに在らされば視れども見えず”でありまして、アタマの中に「理論」がありませんから、いくら視察に出掛けても得てくるものがありません。感想と言えば「きれいだった」「凄かった」くらいでしょうか、おっと“うちにはとても無理”というのもありますね。
結局、時間とお金の無駄遣いに終わるわけですが、それでも懲りずに?毎年あちこちと出掛けます。

 今回のレポートは“商店街視察”と銘打つからには、これくらいは見てきましょうね、と言うことで、これから先、事例視察に出掛けるにあたって役に立ててもらえるような内容になれば良いな、と思いつつ、さらに、丸亀商店街をはじめ高松市中心商店街の皆さんにもなにがしかの参考にしてもらえればと、欲張った趣旨で取り組みます。

 サワリの部分を少々。

第一に。
 取り組みの基本は、“街をショッピングモールに”というテーマのもと、再開発手法で街区を順次整備、ついで?にマンションを建てて居住人口を増やしています。

第二に。
 テナントは、まずは立地している百貨店三越の増床です。
事業に際して自店のテナントのうち、ブランド有名どころ多数を通りに出しました(三越ANNEX)。
これは画期的な判断でしょうね。
三越さん、手狭感のある本館ですが新館増設とANENEXの展開で全体としては何がどうなったか?
というあたりもちゃんと見てきました。

第三に
 現在二期目の工事がたけなわですが、これからがほんとうの本番です。
スタートしているB地区の工事では地元のお店・買い回り型専門店の集団が対象になります。果たしてハードの改築を業績好転に結びつけることが出来るかどうか。
成否は新しいデスティネーションを構築できるか否かに掛かっています。

 と言うことで、丸亀町商店街の取り組みはいよいよ本番、計画の適否はこれから「個店の業績」として如実に現れます。
計画時点では顕在していなかった「百年に一度の暴風雨」ならぬ「地殻変動」ですが、果たして「百年OKのまちづくり」を掲げている取り組み、この地殻変動に上手に対処できる構想になっているかどうか。

第四に
 中心市街地全体としてみますと。
周辺商店街の空洞化には著しいものがありまして、もちろん、現段階で丸亀町の取組の波及効果はほとんどありません。このままでは周辺街区の空洞化はさらに進展することになりそうで、丸亀町の取組が順調に進展したからといって周辺商店街への波及効果が生まれることはありません。
ご承知のとおり、波及効果といううものはじっと待っていれば出てくるというものではありません。
別途、商店街ごとに活性化策を講じていくことになりますが、現段階ではどうなっているのか、心配です。基本計画を見てみましょう。

 ということで、商店街にとっても中心市街地にとっても問題山積ですが、もちろん、全国の各地の商店街・中心市街地の取り組みとは比較にならないレベルの取り組みであることはいうまでもありません。問題はにもかかわらず、その将来はけして明るくないということでありまして、その原因はどこのあるのか?

 知りたい人は、サイトの【都市経営】へどうぞ。

中心市街地・商業機能の活性化

 目下ご承知のとおり、【都市経営】でズバリ「一から出直す中心市街地活性化」と題して、商業機能の活性化についてあらためて考えています。

 中心市街地の主要な都市機能と言えば、誰がどう考えても「小売商業」でありまして、中活法のスキームで中心市街地活性化に取り組むということは、とりもなおさず、中心商店街の活性化に取り組むことを意味します。もちろん、都市によっては商業機能以外の都市機能が結構な比重で立地している場合もあるでしょうが、だからといって、“非商業機能の活性化”を商業活性化と同列に扱ったりしてはいけません。
取り組みは必ず「小売商業の活性化」をメインに据えること。
あれこれと「集客施設」を設置、集客したお客を旧態依然たる商店街に回遊させる、という筋書きは必ず失敗します。たとえ集客施設が成功しても、その結果として商店街が活性化するということは無いのです。といっても信じられない人には、事例を紹介しますのでメールをどうぞ。

 商店街活性化のキモは、“郊外型商業施設全盛時代”にもかかわらず、お客がわざわざ買い物に来ずにはおれない「買い物の場」として再構築すること。これ以外の「活性化策」は、“小売商業を活性化する”という目的を達成することはできません。
もちろん、当サイト常連の皆さんには先刻了解されているところですが、了解されている割には「正真正銘の活性化」への取り組みが遅々として進みませんね。どうしたことでしょうかW

 さらに念を押しておきますと。
郊外型商業との競合あるいは棲み分けもさることながら、さらに重大な問題がありまして、この時期に“商店街を活性化するぞ”といったとたん、“百年に一度の大暴風雨”ならぬ、中心商店街発祥以来、いや、小売商業始まって以来の大転換期を乗り切っていくことが要求されるわけです。

 大転換期とは何か?
1980年代後半から顕著になっている、
○もの余り・・・メーカーにも問屋にも小売の店頭にも、もちろんお客の家の中にも。
○店あまり・・・商店街にも郊外にもネットにも
○人あまり・・・メーカー・問屋・小売を問わず
という状況です。
さらに
○金余りという条件がありまして、リアルでの行き場がないお金はバーチャルに向かい、結果としてバブル~破裂となるわけです。
ちなみに、「緊急対策」もリアルでの還流出来ずにまたしてもバーチャルに向かい、またしてもバブル~破裂を起こします。

 今どきの商店街活性化とは、こういう状況のまっただ中において、空洞化著しい中心商店街をあらためて「ショッピングの場」として再構築することを意味します。
その他の理屈はウソ・デタラメ、いくらお金と時間をつぎ込んでも“中心市街地を中心に地域でお金が回るようになる”ということは実現できません。

 商店街を活性化するということは、“百年に一度の大暴風雨”の真っ最中であるにも関わらず、活性化に取り組んだ個店の中から繁盛する店が増えてくる、ということを意味します。
逆に言えば、こういう時期にも関わらず、否、こういう時期だからこそ、取り組んだ個店は繁盛するようになる、というのが「商店街活性化」ですからね。

 “百年に一度の暴風雨”にしてやられた、暴風雨さえ来なければ活性化できたのだが、というような弁解があちこちで聞かれるようになるわけですが、暴風雨の有無に関わらず、「商店街活性化」という課題は厳然としてあるわけで、泣き言を言えばなんとかなるものでもありません。

 わが商人塾では、“百年に一度の暴風雨”を大転換の時代・“三点セットの環境の変化”としてきっちり把握しています。
ポスト工業社会=時間堪能型社会への転換期こそが“大暴風雨”なのでありまして、転換期が見えない人には暴風雨ですが、見えており、かつ、適切な対応が分かっている人にはそれこそ「百年に一度」どころか文字通り千載一遇のチャンスなのです。

 と言うことで。
次回の“基本計画の中間総括”にあたっては、「百年に一度の大暴風雨にしてやられました」などというでたらめな総括をしなくて済むように、しっかり「繁盛店づくり」に取り組んで行きましょう。
この時期に売り上げが上がっていくのが正真正銘・ラグジュアリィ志向の業容革新、活性化への唯一の道です。

 よろしいですか、ほかの道はぜ~んぶ邪道ですからね。
住む人来る人を増やすなどという邪道を歩いて正業が繁栄することはありません。
基本計画の既定路線、取り組んでいけば暴風雨にめげず繁盛店が増えていくのか行かないのか、あらためてじっくり考えてみては如何でしょうか。

事例調査

 高松市丸亀商店街
いわずと知れた「所有と利用の分離」のモデルの一つともいわれる事例です。
【都市経営】で取り上げています。
(引用スタート)
 Web上でみられる情報だけから丸亀商店街の取り組みを論評してみましょう。

 流布されている情報には重要な部分が欠落しておりまして、

1.この事業で実現を目指した「商業機能」は何だったか?
2.新たな機能を実現するためのテナントミックス計画はどう立てられたのか?
3.既存個店にはどのような役割が期待されたか?
4.役割を果たすために個店に要請された努力は?
 また努力に対する支援はどう計画され、実施されたか。
 その成果はどうであったか。
5.新規に募集されたテナントの基準はどう設定されたか。
6.総合して集積の将来展望をどう見るか

 といった情報は、まったく現れていません。

 目下のところ、Web上で知りうることは、
1.所有と利用の分離で街区をモールとして整備した
2.テナントは満杯状態
3.経営は順調だ
ということですね。

 中には「中心市街地活性化のモデルだ」と評価する向きもあるようですが、モデルにする以上、
1.新しい商業集積が実現を目指した商業機能は何であるか。
2.新しい狙いには将来性がある
ことを論証しなければならない。

 これまでのところ誰もやっておりません。
Web上で見る限り、実施主体にも如上のような問題意識は無かったようです。
(引用終わり)

と言うことで、既報のとおり、見に行きます。

課題は
1.丸亀商店街の現状
(1)商業集積としての性格
(2)集積としての業容
(3)展望
2.高松市中心市街地(商業街区)の現状
(1)業容
(2)丸亀商店街の波及効果
(3)展望
といったことを把握したいと思っています。

週末にはレポートできると思いますのでお楽しみに。

ところで、商店街の事例調査と言えば“新しい事業に取り組んだ”というニュースが流れてきたところへ出掛ける、というパターンが多いようです。たいていは1~2時間の交流会とその前後に1時間足らずの商店街見学、一泊二日の行程で宿泊は近場の温泉だったりするW。
ちょこっと出掛けての見たり聞いたりで行き詰まっている商店街活性化の参考になる情報が入手できるというのは、虫が良すぎます。実際、これまで何回、何十回出掛けたわけですが、その結果として何がどうなることもないわけです。

 商店街活性化にホントに役立つ視察調査なら、近場に立地しているショッピングモール(大型ショッピングセンター)が最優先です。
ショッピングモールはなぜ地元客に支持されているのか?
モールが地元で果たしている役割は何か?
モールの基本的な弱点とは何か?
というような基本中の基本について、なんの理解も持っていない、それどころか理解が必要だということさえ共有されていない、そもそも「商業集積の視察の方法」などもほとんど分かっていないというのが商店街の実態のはず、遠くの商店街を見に行く時間があったら、ショッピングモールをしっかり調査するべきです。
そもそも、これまで商店街で一度も研究会を開いたことがない、というのが大問題。

 モール=大型ショッピングセンターを理解せずして商店街活性化を語ることなかれ。
語ってもいいんですが、そのレベルではまず活性化に役立つ施策を講じることは出来ません。

 と言うことで、いよいよ総会の季節も終わり、新年度は是非「ショッピングセンターを理解する」基本中の基本に取り組んでください。

勉強会のお奨め
『ショッピングセンター全盛時代の商店街活性化』
http://www.quolaid.com/seminar/seminar0804.htm
御地近場のショッピングセンターを視察分析して、その実態・弱点を把握します。
商店街・勝ち残りのチャンスとその獲得方がわかります。

旧民主党の「綱領」

資料・旧民主党(96~98)の理念

 立ち上げたのは民主党新代表の鳩山さんたち。この「綱領」は鳩山さんの原点かも知れません。
 検索したところ高野孟さんのサイトに保存されていました。


引用スタート
※旧民主党が96年9月の結成時に発表した綱領的な文書だが、旧新進党の人々が合流して新民主党になったときに「廃棄」されたらしく、今は民主党サイトのどこにも残されていない歴史的文書になってしまった。先日、民主党の若手議員たちの勉強会に呼ばれたときに、この文書の話をしたら、ほとんどが「知らない」と言うので、ここに掲げることにした。(以上高野さんsaid)

(「綱領」はここから)

 私たちがいまここに結集を呼びかけるのは、従来の意味における「党」ではない。

 20世紀の残り4年間と21世紀の最初の10年間をつうじて、この国の社会構造を根本的に変革していくことをめざして行動することを決意した、戦後生まれ・戦後育ちの世代を中心として[老壮青のバランスに配慮し]た、未来志向の政治的ネットワークである。


社会構造の100年目の大転換

 明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのための多極分散・水平協働型の「市民中心社会」を築き上げなければならない。いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。

 3年間の連立時代の経験をつうじてすでに明らかなように、この「100年目の大転換」を成し遂げる力は、過去の官僚依存の利権政治や自主性を欠いた冷戦思考を引きずった既成政党とその亜流からは生まれてこない。いま必要なことは、すでに人口の7割を超えた戦後世代を中心とする市民のもつ創造的なエネルギーを思い切って解き放ち、その問題意識や関心に応じて地域・全国・世界の各レベルの政策決定に参画しながら実行を監視し保障していくような、地球市民的な意識と行動のスタイルをひろげていくことである。

 政治の対象としての「国民」は、何年かに一度の選挙で投票するだけだった。しかし、政治の主体としての「市民」は、自分たちがよりよきう生きるために、そして子どもたちに少しでもまし未来をのこすために、自ら情報を求め、知恵を働かせ、別の選択肢を提唱し、いくばくかの労力とお金をさいてその実現のために行動し、公共的な価値の創造に携わるのであって、投票はその行動のごく一部でしかない。私たちがつくろうとする新しい結集は、そのような行動する市民に知的・政策的イニシアティブを提供し、合意の形成と立法化を助け、行動の先頭に立つような、市民の日常的な生活用具の1つである。

2010年からの政策的発想

 私たちは、過去の延長線上で物事を考えようとする惰性を断って、いまから15年後、2010年にこの国のかたちをどうしたいかに思いをめぐらせるところから出発したい。するとそこでは、小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による「地方分権・地域主権国家」が実現し、そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく、新しい展望が開かれているだろう。

 経済成長至上主義のもとでの大量生産・大量消費・大量廃棄の産業構造と生活スタイル、旧来型の公共投資による乱開発は影をひそめて、技術創造型のベンチャー企業をはじめ「ものづくりの知恵」を蓄えた中小企業経営者や自立的農業者、それにNPOや協同組合などの市民セクターが生き生きと活動する「共生型・資源循環型の市場経済」が発展して、持続可能な成長とそのもとでの安定した雇用が可能になっているだろう。

 国のつごうに子どもをはめ込む硬直化し画一化した国民教育は克服され、子どもを地域社会で包み込み自由で多様な個性を発揮させながら共同体の一員としての友愛精神を養うような、市民教育が始まっているだろう。

 そして外交の場面では、憲法の平和的理念と事実にもとづいた歴史認識を基本に、これまでの過剰な対米依存を脱して日米関係を新しい次元で深化させていくと同時に、アジア・太平洋の多国間外交を重視し、北東アジアの一角にしっかりと位置を占めて信頼を集めるような国になっていなければならない。

 私たちは、そのようなあるべき未来の名において現在を批判し、当面の問題を解決する。そしてたぶん2010年までにそれらの目標を達成して世代的な責任を果たし、さらなる改革を次のもっと若い世代にゆだねることになるだろう。

 私たちは、未来から現在に向かって吹きつける、颯爽たる一陣の風でありたい。

友愛精神にもとづく自立と共生の原理

 私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは「友愛」の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は「出る釘は打たれる」式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの100年間はあまりに軽視されてきた。20世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。

 実際、これまでの世界を動かしてきた2大思想である資本主義的自由主義と社会主義的平等主義は、一見きびしく対立してきたようでありながら、じつは人間を顔のない大衆(マス)としてしか扱わなかったということでは共通していた。日本独特の官僚主導による資本主義的平等主義とも言うべきシステムも、その点では例外でなかった。

 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。

 西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。


「一人一政策」を持って結集を

 私たちの 政治のスタイルも、当然、未来社会のあり方を先取りしたものになる。中央集権的な上意下達型の組織政党は、すでに問題解決の能力を失って20世紀の遺物と化している。私たちは、各個人やグループが自立した思考を保ちながら、横に情報ネットワークを張りめぐらせ、だれかが課題を発見して解決策を提示すればそこに共感する人々が集まって結節点が生まれ、問題が解決すればまた元に戻っていくような、人体における免役システムのような有機的な自立と共助の組織をめざしている。
 したがってまた、この結集にあたっても、後に述べるようにいくつかの中心政策を共有するけれども、それは時の経過と参加者の幅によって常に変化を遂げていくはずだし、また細部に立ち入れば意見の違いがあるのは当然だという前提に立つ。意見の違いこそが創造的な議論の発端であり、それぞれが知的イニシアティブを競い合うことで新しい合意をつくりあげていく、そのプロセスを大事にしたい。

 また私たちは、世界に向かって開かれたこの政治ネットワークの運営に当たって、電子的な情報通信手段をおおいに活用したい。私たちは電子的民主主義の最初の世代であり、地球市民の世代である。

 この「党」は市民の党である。いまから21世紀の最初の10年間をつうじて、この「100年目の大転換」を担おうとする覚悟をもつすべての個人のみなさんが、「私はこれをやりたい」という「一人一政策」を添えて、この結集に加わって下さるよう呼びかける。

(引用終わり)

コメントは後ほど

都道府県の商業振興施策

 小売商業振興の中核となる商店街活性化については、中活法制定以来、専ら市町村と国の直接交渉で進められており、その分、都道府県の体制・施策は生彩を欠いているのではないか?
遠くから見ておりますとそういう感じがしますが、実態はどうでしょうか。

 このところの商業活性化の状況はと言えば、ご承知のとおり、基本計画所載の事業から緊急施策まで、あれこれと講じられていますが、まことに残念ながら、「活性化への道」が切開されたという情報は聞こえてきません。
全国の市町村、商店街がいっせいに取り込んでいるにもかかわらず、商店街の将来発展につながる展望がまったく見えていない。
展望がないまま繰り返されるのは、通行量が減ったといえば集客イベント、アーケードが痛んだといえばその改修・撤去、定額給付金が出るといえば商品券、と言うようにその場限りの思いつきばかり、商店街活性化実現のシナリオに沿って事業に取り組んでいる商店街はほとんど皆無という実態が続いています。
いつまでこういう取り組みが続くのか?
続けることが出来るのか?

 全国の取り組みには共通して欠落していることがありまして、あれこれの事業メニューには取り組むものの、商業振興・商店街活性化に必要な知識・理論・技術を修得・共有するという、およそ今どきの小売業が繁盛するためには絶対不可欠の条件を作るという作業がほとんどまったく取り組まれておりません。
中心市街地既存の小売業は、商店街のみならず百貨店まで業績劣化、「天敵」と黙される郊外のショッピングセンターも不振に陥っているこの時期、相も変わらぬ彌縫策の単発でなんとかなると思っている、その「ものの見方・考え方」の基本から再構築しなければならない。

 いかがですか?
それとも皆さんが掌握している市町村の商店街では商業活性化の推進に必要な理論が共有され、それに基づいて基本計画の作成事業展開が行われている例がただの一個所でもありますか?
このまま彌縫策にあれこれと取り組んでいればそのうち状況が変化して活性化できるに違いない・・・などと言うことは考えられません。

 と言うことで、都道府県の商業活性化施策の出番です。
小売商業振興施策がスタートして以来、今日に至るまで、ただの一度も企画されたことのない「商業活性化を実現するために必要な知識・理論・技術(以下「活性化理論})を修得する機会」を都道府県主催で確保すること。
対象にするのは、市町村・商工団体の担当者及び商店街のリーダーなど。これら関係者が「活性化理論」を共有することで、現状認識の共有からスタートして目標設定~事業の構想企画という「活性化への道」が描かれ、その「道」に基づいて関係各方面がみずからの仕事に取り組むことで活性化を実現していく、というあるべき取り組みを実現することが可能になります。

 これまでのように、よそで成功したと伝聞した事業に単発で取り組む、というパターンを続けていたのではこれまでの同様の結果しかあり得ません。

 この時期、都道府県の仕事は、市町村の「活性化理論」装備の機会を提供すること。迂遠なようですが、この段階をクリアしないまま、「活性化事業」に取り組むというのは、前述のとおり、これまで全国でさんざんやって来た・失敗の山を築いてきた“やってはいけない活性化”です。

 これまで商業振興関係の勉強と言えば、「成功事例の話を聞く」、「成功事例を視察する」、「成功企業の経営者の話を聞く」というのが通り相場でした。いずれもまったく意味がないとはいいませんが、肝心の「活性化理論」を共有する、という課題の達成にはほど遠い企画です。
こういう勉強で活性化が出来るなら、日本全国、成功事例がドンドン増えているのではないか?

 「活性化理論」には活性化への道を導くという任務から、具備しておかなければならない要件があるはず、それを備えていない「勉強」ではものの役には立ちません。
商業振興・商店街活性化の実現に不可欠な「活性化理論」修得の機会を都道府県が提供すべきだと思いますが如何でしょうか。

 ご承知のとおり、当社はかねてから「クオールエイド流・商人塾」という「活性化理論」を修得する機会を提供しています。

※クオールエイドが提供する商人塾

※取り組まれた事例:甲府市商人塾

商人塾の構成をもとに、是非
“商業活性化のための「活性化理論」を修得する機会”
を設定、市町村に提供されることをお奨めする次第です。 

 地域商業の活性化、まずは関係各方面の担当者が問題情況・解決の方丈と方法について理解を共有すること、取り組みを企画立案する「共通の土俵」を作る(まったく構築されていない!)という基本中の基本への取り組みが、最優先で取り組まなければならない課題、商業振興施策だと思われますが、あなたはどう思いますか?

商店街組織の再起動

 商店街組織を活性化するためには、「自助努力の組織化」に向けた取り組みが必要です。

 このほど、とある都市の中心市街地に立地する商店街のリーダーさんから、マンネリ化している活動を立て直す取り組みをスタートする企てについて情報が寄せられました。
中心市街地活性化法の制定以来、いったい誰が商店街活性化の主役なのか、はっきりしなくなりました。
以前は、商店街単組~連合組織の取り組みに対して商工会議所、中央会などがしかるべく支援をしていく、というパターンが多かったのですが、「法」制定以来、TMOやまちづくり会社、中心市街地活性化協議会などの組織が次から次へと立ち上げられ、かつ、それぞれの役割もけしてめいかくになっていないために、相互に譲り合い、あるいは手抜きした結果、それらしい組織は増えたものの、肝心の商店街活性化の取り組みの方は、むしろ退化しているのではないか?
 他方では、多岐に渡る活性化事業の取り組みにも関わらず、街の空洞化は着実?に進展しており、もはや商店街活性化を推進する事業主体さえはっきりしなくなっています。
商店街、TMO、商工会議所等々それぞれ持っている事業メニューを集めて、所期の目的である商店街活性化=ショッピングの場としての再構築に向けて、一体的・総合的に取り組んでいくという体制を作っているところは少ないのではないか。

 紹介された取り組みの企画は、中心市街地活性化を実現していく取り組みの第一歩として、既存の各組織の存在は尊重しつつ、とりあえず、それらとは一線を画して商店街単組の連携の再構築をめざすものだそうです。
連携の目的は、自店の命運を賭けて繁盛の維持・再建に取り組んでいる有志のネットワークを作り、取り組みのノウハウ交換や共同事業の展開をめざすというもの。

 商店街有志の中から生まれた機運ということで、大いに期待されます。
まずは各商店街の代表による協議からスタートすることになるそうですが、大事なことは「理論の共有」と「成功事例の実現」です。
中心市街地全体から有志を募り、「繁盛店づくり・成功事例作り」に取り組むことが、長い目で見た成功への道だと思います。

 クオールエイド流「商人塾」へのチャレンジが決定すると、一挙に展望が開けてくると思います。
新しいチャレンジ、6月早々にスタートするとのことですから、注目したいと思います。
なお、当社にできることあればお手伝いOKですから、お気軽にどうぞ。

 と言うことで、このチャレンジについては引き続きフォローして行きます。
なお、皆さんのまちで新しい取り組みなど、企画がありましたら【商店街起死回生】コーナーでお知らせいただくと嬉しい限りです。

※※お知らせ
 今週中に高松市中心市街地を視察します。丸亀商店街をはじめ中心市街地の状況および郊外のゆめタウンなどを見てくる予定です。
結果はサイトで報告します。

啓蒙とは勇気を出すことだ

 啓蒙とは何か?
啓蒙といえば必ず言及されるカントさん曰く。
(以下カント『啓蒙とは何か』より引用)
◇啓蒙の定義
 啓蒙とは何か。それは人間が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ。
未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気を持て」、すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
(引用終わり・カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫10ページ)

 啓蒙すなわち「自分のアタマで考える」には勇気が必要だとカントさんはおっしゃっています。
何しろ当時、人々に代わって考えてくれていたのは教会ですから、これを振り切って自分のアタマで考えるということはひょっとしたら地獄に堕ちるかも知れない、想像を絶する勇気を必要としたはずです。
教会だけではありません。王権だって黙っちゃいません。

カントが活躍した時代、“自分のアタマで考え、行動する”ことは、今では想像さえ出来ない勇気を要することだったはずです。カントさんが“啓蒙とは勇気を出すことだ”と喝破したのも無理はありません。

それではわれわれが生きる現在はどうか?
当時とは大違い、言論思想の自由が喧伝される今日では、「勇気」などは関係ないのではないか?
と思ったあなたはよほど人がよいか、ホンキで啓蒙的行動を考えたことがない人かも知れません。

 “自分のアタマで考える”とは、世間に通用している常識に対する「信頼」をひとまずカッコに入れて、その妥当性を自分のアタマで考えて見る、ということです。
この取り組みはなぜ必要か?

①常識に基づいて取り組まれていることが、所期の成果を挙げていない。今後とも挙げられそうにない。
②ひょっとしたら常識が間違っているのではないか?
ということから自力思考が始まるわけですから、
①常識=関係者が信じて疑わないことをあえて疑ってみる
ということであり、さらに
②結果、「常識のウソ」が判明したら、断固としてそれをひっくり返す
ということに進んでいきます。
大勢に弓を引くわけですから、これはもう、「思想言論の自由」が有ろうと無かろうと、あなたにとっては大変なリスクになる。
 “常識に即して行動しているあんたたちはバカ”だと言っていると受け取られますからね。
とくに組織に所属している人にはなかなかこういう行動にでることは出来ません。自分のアタマで考える「勇気を出せ」、というのはカントの時代だけではなく、今も立派?に通用する叱咤激励です。

 この点、自分が生まれる前から存在する組織の枠組みに縛られていない・「一国一城の主」たる商業者の皆さん・独立自営業者の皆さんは、啓蒙・いつでもOKのようですが、なかなかそうはいきません。
「となり百姓」という言葉がありますが、商店街全盛当時は、自利思考抜き・見よう見まねで結構商売になりました。以来今日まで「自力思考」の必要を感じたこと・心掛けたことはありません。
隣近所の皆さんと共同歩調を取っていればOKだった当時から行動パターンは不変です。

 もちろん、これまでのようなものの見方・考え方で商売繁盛を再現出来るとは思っていませんが、だからといって頼るものはないし、それかと言って自力思考にうって出る勇気はないし・・・。

 ということで。
中心市街地・商店街活性化に取り組む巡り合わせとなり、かつ、従来の取り組みに飽き足らない・これまでのやり方につきあうのはまっぴらだと言う人は、「自力思考」の道に赴かなければならない。
もちろん、一から十まで自分で考えよということではありません。
目的を達成するために、自分が歩くべき道はどこにあるのか、自分で探し、吟味し、選択するということです。

 このとき、「常識」に安住している大勢からは、批判・非難の目が向けられるかも知れません。今までの人間関係も一時的にではあれ危うくなるかも知れません。
そもそも、自分が赴こうとしている方向に確かな道があるかどうかも分かりません。考えてみれば心細い限りです。

 だがしかし。
活性化の実現がほんとうに必要だ、やり遂げなければならない、と決意しているのであれば、道はただ一つ、ですね。

 カントさんのおっしゃるとおり、「勇気」を出して進む以外にありません。
当サイトの主催者をはじめ、みんな勇気を出して取り組んでいる「中心市街地活性化への道」です。

〈商店街活性化〉から〈商業機能の活性化〉へ

 現在、あらためて「商店街活性化」について、“最初の一歩から考える”スレッドを立ち上げています。

『一から出直す商店街活性化』
そもそも“活性化とはどういう意味か”ということからスタートして、これまで“暗黙のご了解”とされている事についてもあらためて考えてみようという企画です。
http://www.quolaid.com/cgi/tmo/wforum.cgi?no=3400&reno=no&oya=3400&mode=msgview&page=0

 あらためて確認したことは、これまでの取り組みでは「商店街活性化」とは、
商店街の何がどうなることか?
という肝心の目的について関係者の間で合意されていないということ。活性化という取り組みの目的が共有されていないと、当たり障りのない「販促事業」やハード事業に終始することになるのは当たり前かも知れません。
もう一度、「商店街活性化とは、①商店街の ②何が ③どうなることか」という基本中の基本を考えてみなければならない。これはもちろん、他の取り組みに優先して取り組まなければならない最重要課題です。

 中心市街地活性化法では“中心市街地活性化とは中心市街地における都市機能の増進と経済活力の工場である”と定義されています(第二条)。
この活性化の定義を商店街に当てはめてみますと、商店街活性化とは、
①商店街における
②都市機能の増進 および
③経済活力の向上
だということになります。
機能の増進は、既存機能の革新及び新規機能の導入などによって時代環境の変化に対応できる機能の活性化を意味すると考えたいと思います。

 商店街が分担する都市機能とは何か?
あらためていうまでもなく、「商業機能」であり、見方を変えれば「ショッピング機能」であり、中心市街地のうち、商業機能が集積されている街区が「商店街」ですから、
商店街活性化とは、
そこに集積している商業機能の増進であり、上に述べた意味での「既存機能の革新と新規機能の導入による活性化」を意味することになります。

 もちろん、実際の商店街には商業機能以外の都市機能も立地していますが、なんと言っても商店街を商店街たらしめているのは、そこに集積されている「商業機能」ですから、商店街活性化の中心課題は商業機能の増進・活性化であることに疑問の余地はないと思いますが如何でしょうか。

 活性化の定義のもう一つ、「経済活力の向上」については商店街の場合、商業機能が増進されショッピングの場としての賑わいを再現すれば、それはそのまま「経済活力の向上」の向上を意味します。
商店街活性化とは、商店街に集積されている商業機能の活性化のことであり、その活性化は、①既存機能(店舗)の革新及び②新機能の導入(空地・空店舗の活用)によって実現されることになります。

 新中心市街地活性化法による取り組みがスタートして丸二年、この間の取り組みの状況や、経営環境の変化を考え合わせますと、あらためて、
商店街活性化とはそこに集積されている商業機能の活性化のことである
という当たり前のことについてあらためて関係者の合意を作り直すことが緊急の課題になっています。

 課題を上記のように理解すれば、「商業集積の活性化」の実現にまったく関係のない、イベントやプレミアム商品券などへの取り組みが商店街活性化につながらないことは、取り組みの結果を見なくても分かりきっていることです。

 自分のアタマでの思考をくぐっていない・暗黙の利用かいとしての「商業の活性化」から、自分のアタマのなかでの吟味を経由した「街区に集積されている商業機能の活性化」へと問題の見方・考え方をよりシャープにすることが必要です。
プレミアム商品券など販売促進活動の「総括」の機会には是非、「商店街活性化の趣旨」についての再検討・合意の革新を実現しなければならない。

 取り組みの必要性を理解し、新たな合意形成をめざす皆さんに対して当社はもっとも着実な取り組みを提案し、支援いたします。 

「世論調査」の奇々怪々 (訂正しました)

何かと言えば「世論調査」を行い、その結果で紙面を作っていくのが「IT時代」のメディアの流儀のようですが、世論調査とはいったい何か?

 市場調査の手法を利用する場合が多いと思います。
市場調査の場合、動向を知りたい母集団から無作為抽出した「標本」に質問を行う、というのが基本手法ですが、いろいろ問題があります。

①世論調査の対象:実際に調査する人(「標本」ですね)は、調査をしようとする対象(この場合、全国の有権者)の組成分布を反映しておかなければならない。
全国の「有権者登録台帳」から標本を選定し、この人たちを対象に調査を行います。

②標本の抽出:「選挙人名簿」から標本を抽出します。
全国に住んでいる有権者の意向を調査するわけですから、居住地・性別・年齢などの属性の分布を忠実に反映しておかなければならない。標本の抽出には「多段階抽出法」が採用されます。

③標本の数:確率で計算するわけですが、たぶん3,000台の標本数で信頼度95%以上の調査が可能です。

④抽出の方法:母集団(この場合選挙人名簿)の名簿を作り、その中からあらかじめ算定した人数だけ標本(特定の有権者の氏名)を抽出します。

⑤調査
 標本に対する調査は、面接・郵送などが主たる方法ですが、コンタクトを取れない場合、標本に変えて他の人を大体することはできません。コンタクトできなかった標本についてはその分「回収率」が下がることになります。

⑥調査の迫真性
 当該調査が母集団の意向をどの程度反映しているか、ということは、調査設計段階の「信頼度」の設定と「回答の回収数」で決まります。
信頼度は95%~98%位で設定されるのが一般的だと思いますが、「全国の有権者」の調査の場合、標本数は、たぶん、3,000人台に納まると思います。(計算すればすぐ分かりますがW)

 問題は、回答の回収率(と言うか、回収した標本の属性分布)です。
標本中、特定の属性を持つグループの回答が回収できなかったりすると、調査結果は実態から大きく変移してしまいます。
 調査要領が、①調査時間:昼間限り ②方法:固定電話経由 ということになりますと、「回収調査票」の中味が母集団をそのまま反映しているとはとても言えません。

 参考:今日の西日本新聞の「世論調査」
テーマ:『民主次期代表 全国電話世論調査』
************* 以下引用 ***************
調査法:全国の有権者を対象に・・・コンピューターで無作為に発生させた番号に電話を掛けるBDD法で実施した。実際に有権者がいる世帯にかかったのは1444件、うち、1024人から回答を得た。
*********** 引用終わり **************

「有権者」という母集団の意向を調査するという目的で、
①コンピューターで無作為に発生させた番号に電話を掛け、
②有権者がいる「世帯」にかかったのは1444件
③うち、回答を得たのは1024人
ということですが、
Q1 ①の数字と母集団(有権者数)との関係は?
Q2 ②の「世帯」で回答したのは有権者だったか? 
Q3 ③の回答は、「有権者」なら誰でも良かったのか?
と言うことで、まったく「無作為抽出法」による世論調査の体を為していません。
そもそも「有権者」に対する世世論査なら、
①標本抽出は多段階方式
②母集団は各地の選挙人名簿
③標本は名簿から無作為抽出した氏名特定の有権者
④質問するのは②で抽出した特定の個人に限る(代理などはもってのほか)

 調査結果の信頼性は“どれだけ回収出来たか”=回収率とその内容に掛かるわけですが、上記の西日本新聞の調査の場合、それ以前の問題として「母集団の決定」、「標本数の決定」「標本の無作為抽出」という調査のルールを逸脱しています。
上記の調査は、
①手当たり次第に電話を掛ける・・・回数不明
②掛かった電話に「有権者」がいるかどうかたずねる・・・1444回
③いた場合、電話に出て調査に応じてもらう・・・1024人
という方法で行われました。
この場合、「掛けた電話番号の数」も「応答があった1444の電話」も母集団である「有権者数」とはなんの関係もありません。
したがって「1024人の調査に応じた有権者」も母集団の「標本」ではありません。
結局、このような新聞社などがよく行う電話による「世論調査」の対象は誰かと言えば「電話に出た人」としか言いようがありませんから、これら「世論調査」というタイトルのもと報じられている世論調査とは“電話で行った世論調査”ではなくて、“電話に聞いた調査”だということになります。
こういう「調査」のもとづく記事で一喜一憂、右へ左へ揺れ動く政党・政治家があるとすればは情けない限り。

 ちなみに、ホンキで有権者の意向調査をしようと思えば、調査費用を@30,000円、サンプル数を3,000とすれば一調査に一億円内外は掛かることになります。
調査に要する期間は、正確を期すためには個々のサンプルに直接面接することが必要でしょうから、最低でも一ヶ月位は掛かるのではないでしょうか。

 と言うことで、毎週のように「世論調査」を行い、その結果について「解説」するというおなじみのパターンの記事の信憑性は恐るべし、だと思います。
 政党も有権者もこの程度の調査による「有権者の意向」の解説に従うわけにはいきません。選挙間近の今日、各政党はコストをいとわず、しっかりした調査を設計・実施していることと思います。
さらに「設問」という段階でもクリアしなければならない課題がありますから、社会調査は難しい。

 そう言えば、商業集積、商店街などでもアンケート調査を行うわけですが、それなりに形式を踏まえた調査にすることが大事です。やみくもにこなった調査結果を真に受けて施策を講じたりすると、トンデモな成果が得られることになりかねません。

(念のため)
takeoがここで述べているような社会調査についてかじったのは、30年も前のことで、その後、新聞各社が採用しているお手軽な手法で信頼性の高い調査が出来るようになったのかも知れませんW
誰か詳しい人がいらっしゃったらご教示くだされば有り難いです。 

※おことわり:
 当記事については、当初、調査の信頼性=信頼度×回収率と書いて、読者からメールで「調査の信頼性=信頼度×回収率というのはおかしい」というご指摘をいただきました。

 考えてみますと、確かに回収率とともに回収/非回収標本の分布状況など、回収率と直接関わらない偏倚もありますから、調査の信頼性を一概に回収率で判断することは出来ません。
この点、訂正しました。御教示いただいたKing Rexさん、有り難うございました。
なお、回収率と調査の信頼性の関係については、当時の教科書には出ていなかったと思います。回収率が下がれば信頼性が損なわれるのは自明のことですが、調査の信頼性と回収率に一義的な関係はありません。回収率(回収数)と信頼性の関係は、ケースバイケースで判断する以外にないのかなと思いますが、如何でしょうか。

あらためて〈活性化〉を考えてみる

現在、【商店街起死回生】で取り上げています。

活性化に取り組むということは、商店街が“活性化に取り組まなければならない情況に陥っている”わけです。
言い換えれば、商店街が“活性化しなければならない”という問題に直面しており、その問題への「解答」として考案され取り組まれるのが「活性化事業」だと言うことになります。
というか、そういう取り組みでないと“活性化しなければならない”という状況から脱出することは不可能です。
以上については、当たり前、常識ですね。

 ところが実際の取り組みは、「問題解決・解答としての活性化策」という位置づけというより、現状に+アルファ的施策をつけ加えることで繁盛を取り戻そう、取り戻すことが出来るはずだ、という発想のものばかりでした。“これさえやれば商店街は活性化できる”という触れ込みで様々の活性化策が・ここ三十年余りにわたって・全国津々浦々の商店街で繰り返し取り組まれてきたわけですが、そのことごとくが失敗に終わっていると申してけして過言で派はないと思います。

 そもそも「活性化」という言葉にも問題がありまして、もともとは化学用語、水にカーバイドを投げ込むとガスが発生する、これが本家的「活性化」ですから、商店街に導入された活性化にも“現状の商店街になにかを投げ込む・付加すれば活性化できる”という流れで用いられるようになったのかも知れません。
 いずれにせよ、一般に商店街活性化という場合、商店街を現状から脱出させるという問題を解決するというより、“不足しているなにかをプラスしてなんとか状況をよくしたい”という目的で取り組まれているわけで、早い話、プレミアム商品券で刹那的に売り上げがアップしたからといって、あすもあさっでも、この先ずうっと売り上げアップが付くわけはありません。ホント、明日あさってはどうするんでしょうね。
ということで、商店街活性化事業と銘打って取り組まれきた多くの事業は、+アルファでなんとかなる、という程度の問題意識で取り組まれる事業だということがよく分かります。

 ホンキで活性化に取り組もうとするなら、前述のとおり、商店街は“活性化が必要だ”という状況に陥っているわけですら、その状況から脱出するためには、
①状況はどうなっているか
②状況から脱出するためには何が必要か
ということを考え抜かなければならない。
すなわち、
①何が問題か・問題を適切に定義し、
②解決には何が必要か、しっかり考えて
③適切な解決策を講じなければならない
当たり前ですね。

 ところが実際の取り組みは、「問題」を適切に把握するというプロセスを省略し(したがって当然「解決策の検討」などは思いもよらないまま)、いきなり+アルファを投げ込むだけですから街の現状はびくともしません。

 参照:
①『商店街組合の現状と課題』(2002年)
如何ですか?これでも相当ユルく書いていますが、全国一律、総じてこういう状況にあるのが活性化に取り組んでいる商店街尾実態ですが、反論出来る人はいないと思います。
もちろん、現在の状況はさらに厳しくなっているはずです。

さらに先立つ2001年にはこういう記事も。
②「商店街活性化」の七不思議


また、当ブロにでは
③『その後の七不思議』
もあります。

「活性化」が“現状に+アルファすれば商店街は活気を取りもどせる・繁盛するようになる”という甘い考えのもと、活性化施策のメニューや「先進事例」などから適当に見繕った事業に取り組んでもその結果、商店街が「ショッピングの場」として再生されることはありません。すでに全国津々浦々の商店街でイヤというほど実証済みのはずですが・・。

 ちょうど今『地域商店街活性化法』の制定が進められていますが、上記についてしっかり考えた上で利用しないと、これまでの取り組みを漫然と続けることになってしまいます。
これは確実にそうなりますからね。

あらためて「商店街活性化」について、基本的な検討に取り組んでいます。

『一から出直す商店街活性化』
『「地域商店街活性化法」について』

 何か目に見える事業に取り組んでいないと不安でしょうがない、という活性化症候群に罹患している人以外は、ちょっと立ち止まって“商店街活性化とは商店街がどうなることか・そのためには何をしなければならないか”ということを考えてみるべきです。
いまだかって考えたことがないわけですから。

 もちろん「商店街活性化」とは、“商店街が「ショッピングの場」として再生すること”でありまして、繰り返しますが“「活性化事業メニュー」に取り組むこと”ではありません。
あらためて書くつもりですが、商店街活性化とは:
①商店街に立地する
②商業機能の活性化 すなわち
③商店街の商業集積としての活性化
のことであり、商業機能の活性化をめざさない活性化は商店街の仕事ではありません。

〈継続事業体〉とどうつきあうか

 企業を going consarn:継続事業体といいますが、ほとんどの組織が組織目的の達成をめざして事業を営みます。
当サイトにお出でになる皆さんは、ほとんどが何らかの継続事業体に所属し、その組織目的を達成する活動を担うプロセスでみずからがその組織に期待する「目標」を獲得する、という働き方をしていらっしゃるわけです。

 組織の課題は、
①組織目的は永続的に達成し続けなければならないが
②組織の成員はすべて限られた間しか組織に所属しない
という条件において
③限られた間しか所属しない成員の働きで如何に組織目的を達成し続けるか?
というところにもあるわけです。
あまり自覚されることは無いかも知れませんが。

 この課題に対処するために組織が成員に求めるのは、
①「まっとうである」ということ
漠然としていますが、区分すると
②「言動に一貫性がある」こと
③「恥を知る」こと
ですね。
 
 限りある期間だけ所属する成員の活動を通じて、組織目的を達成し続けるためには、成員の言動に一貫性があり、かつ、彼らが「恥を知る」というビヘイビアを身につけていることが必須条件です。
これがないと、全体を考慮しない部分最適に走ったり、当面する課題の解決に手段を選ばない、という行動が取られる可能性があり、それは結果的に継続事業体との継続性を危うくします。

 それは極端な場合としても、組織成員の言動が一貫しており、かつ、恥を知る・廉直であるということが確保されていないと、継続事業体の「目的の継続性」が保証されません。

 組織がその成員に求めることは、真っ当であること。言動に一貫性を持ち、恥を知るということ。
この二つは、他のすべての資質に優先します。

 さらに、啓蒙力:自力思考の能力を高めるという組織への所属の有無に関わらず、誰もが努力し実現すべき課題への取り組みにもこの二つの条件は非常に大きな役割を果たします。

わが国ではあまり問題になっていないようですが、興味のある人はウイキで
intellctual integrity、intellectual honesthy
を検索してみてください。

※啓蒙力の強化という取り組みにおけるintegrity、honestyの重要性については、【理論創発】で、スレッドを立てます。

疾風怒濤の90年代(新書で読み解くその三)

 疾風怒濤:
Sturm und Drang(シュトゥルム・ウント・ドラング)の訳語です。意味は「事態の変化が激しく大きく変わる様子」だそうです。
18世紀後半にドイツでゲーテを中心に起こった革新的文学運動を主に指す言葉です。(yahoo知恵袋)

 “新書で読み解く”という身の程知らず・大それた企画を思いついたばっかりに、連休の間、新書ばかりか関連の本を手当たり次第に広げていたところ、気づいたことがありまして。
“今という時代を読み解く”という問題意識をもってチェックした単行本のほとんどが90年代に出版されたものでした。

 表舞台で新自由主義が我が世の春を謳歌していた90年代、これを批判する立場の単行本がたくさん発行されていたわけで、内容も新自由主義批判に止まらず、主流派(新古典派)批判、新たな資本主義分析へのチャレンジなどなど、批判の視点も多様でまさに百花斉放という状態。
それぞれ著者の持っている切迫した危機感が伝わってきます。
あらためてチェックしてみたら、当社所蔵分だけでも50冊をはるかに超えていました。

 2000年代に入るとちょっと勢いが落ちているかなと思われますが、90年代の批判的作業を踏まえて構築作業に取り組まれている最中でしょうか。

 後代、社会経済理論の大転換は90年代に始まった、と評されることになるかも知れません。
ゲーテをもじれば「革新的経済学再構築運動」W

 中心市街地・商店街活性化を考えるとき、経済学は従来どおり、では話になりません。
早い話。雇うのは中国進出・中国人、製品を買ってもらうのは母国日本の皆さん、というシナリオは成り立ちませんから。
所得と消費は生活の両面でしょ。

自衛隊「機関紙」 『朝雲』の記事二つ

週刊「朝雲」

ウイキによれば
“朝雲新聞(あさぐもしんぶん)は、防衛省・自衛隊関連のニュースを主とする日本の新聞。発刊当初はタブロイド判で月2回発行だったが、間もなく旬刊となり、発刊翌年からはブランケット判で毎週木曜日に発行される週刊紙となった。朝雲新聞社発行。”
“公称25万部の発行部数の一部は部外で購読されているが、大半は防衛省共済組合を通じて自衛隊内で購読されていることから、防衛省・自衛隊の機関紙的な色彩が強い。紙面内容は防衛行政から自衛隊の訓練、行事、人事、装備、評論、隊員の所感文など多岐にわたるが、特に災害派遣や海外での「PKO」活動、軍事関連の法制などは一般紙に比べ詳細に報道されている。”

 ということで、マスコミのポジションが判定しやすいコラムを紹介すると:

■その一
『時の焦点 <国内>』2009/4/2付
「情けない民主党の対応」 南風 太郎 (政治評論家)

西松建設献金疑惑
 民主党には今でも期待している。
 日本の政治に染みついた澱を洗い流して国の仕組みをリセットし、国民の政治への期待感を高めていくためには、やはり、政権交代が可能な政治システムを育てたい、と思うからだ。
 しかし、小沢代表の資金管理団体を巡る政治資金規正法違反事件での民主党の対応を見て、嫌気がさしてきた。
 小沢代表が辞任しないことの是非を云々しているのではない。
 それよりも、疑惑の渦中にある小沢氏に関する民主党議員の言動とその変遷を見て、この党の多くの議員に染みついている狡猾さ、計算高さ、リスクを取ろうとしない日和見主義、大衆世論への迎合主義、大舞台で喧嘩ができないひ弱さ、等々を改めて感じ取ってしまったのである。
 3月27日、小沢代表は党の参院議員総会と代議士会で、自らの事件について陳謝し、代表続投を求めて了承された。
 小宮山洋子氏など続投に異論を唱えた議員もいた。しかし、こうした中堅若手グループの異論が表面化したのは、メディアの世論調査で民主党の支持率が下落し、衆院選勝利に黄信号が灯り出してからだ。
 事件発覚当初は、もごもごと様子見をしていたくせに、世論調査の数字が出たら、それを錦の御旗にして騒ぎ出す。政治家としての信念はどこにおありか。
 「小沢降ろし」が民主党内で大勢にならない背景には、民主党議員の幾重もの「計算」が透けて見える。
 ベテランや旧社民党勢力は、小沢氏が退場したら、保守系中堅の岡田克也氏らが再び台頭し、自分たちの党内権力が脅かされるのではないかと恐れている。
 中堅若手も、「小沢続投で多少の傷を負っても、衆院選で政権交代が可能な程度に踏みとどまれるなら、ここで喧嘩をするのは損だ」「小沢は世論に追い込まれていずれ自分から辞めるだろう」「衆院選で政権が取れなかったら小沢のせいにすればいい。その後は自分たちの時代がくる」などと目論んでいる。
 普段は立派なことを言っているのに、いざとなると、体を張って守ってくれないインテリの優等生。そんな集団に、日本の針路を託して本当に大丈夫か。
 利権誘導で多少あこぎなまねはしても、党内で直情的な権力闘争をやっている自民党の方が、やっぱり活力はあるんじゃないか。
 いかんいかん。そんな悪魔のささやきを聞いていたら、「政権交代可能な2大政党制」はまた遠のいてしまう。
 というジレンマを、国民は感じているのではないか。
 「小沢か反小沢か」で離合集散を続けた日本政治は今、一つの節目に近づいている。ここらで新たな政党再編への道が開けてくるのだろうか。

□takeoのコメント

 あまり違和感のない論調で最近の全国紙などよりよほど読みやすいのですが、どうでしょうか。
 民主党のていたらくはまったく書かれているとおりでありまして、「右顧左眄」は同党の抜きがたい性格でしょうか。任期が押し迫るなかで弁護士資格を持つ代議士などが“法律論議はともかく、代表は進退を決せよ”といった議論ならぬぼやきを党内論議ではなくマスコミを通じて、未だにたれ流しているのは醜態の限り。党のガバナビリティが問われる事態。

※小沢代表の辞任で、反小沢派の鼎の軽重が問われることになりました。

■その二
『朝雲寸言』2009/4/16付

 4月7日付読売新聞に、元陸上自衛隊西部方面総監の村松栄一氏の寄稿が掲載された。その中で氏は「田母神論文」について、大きく二つの点をあげて批判している。第一に、田母神氏が「日本が侵略などしたことのない『良い国』であることを否定すれば、自衛官が国防に命をかけることはできない」と主張するのに対して、それでは、歴史の評価が定まるまで国防ができないことになる、と批判する。さらに、今日の日本は道徳が退廃し、守るに値する「良い国」でないと思えば国防は成り立たないと述べ、国防の根源は「歴史」ではなく、自らの国は自ら守るという民主主義の原理だと説く。かつて、自衛隊反対の相手に向かって、「自衛隊反対を含めて国民の自由を守るのが自衛隊だ」という自衛官の声を聞いたことがある。競争万能、格差社会の風潮の中で、我々は、批判者を敵視する善悪二元論に陥っていないだろうか。反対者も国民である以上、守るのは自衛隊の任務だ。村松氏があげる第二の点は、組織のトップが進んでルールに反し自説を展開したことだ。氏は、組織人たる以上発言に制約があるのは当然で、自由に発言できないのは自衛官だけではない、と言う。陸士59期出身の村松氏の所論には、民主主義下の軍人の根本的な人生観が見て取れる。政府は、田母神問題に関し「ルール違反」のみを重視しているが、「軍人」のあり方を考える必要はないのか。

□takeoのコメント

 もともと問題となった田母神氏の言説は、私が持っている自衛隊のイメージとは大変かけ離れたもので、違和感を禁じ得ないものでした。ほとんど時事関連のコメントはしない当欄であえて取り上げた次第ですが、自衛隊内部でも極めて「浮いた」言説であることはこのコラムからも明らかです。

 自衛隊にも個人的には論調があることでしょうが、「機関紙」を見る限り、かねてのイメージとの間に齟齬はありません。発言に対してはいちはやく陸・海の幕僚長が批判していたようですし。

 二、三つけ加えておきますと、
“わが国は侵略国家ではない”という氏の発言ですが、侵略国家か否かという問題の立て方は一部「保守」を標榜する人たちに特徴的なレトリックです。
論争は過去において侵略行為を行ったか否かということをめぐり、個別具体の政治・軍事行動が論じられるわけで、世の中に氏が言うような「侵略国家」とか「非侵略国家」といった区分をする人は、いたとしても・特定のレトリックを駆使することで特別の目的を達成しょうとする下心がある人たちだけですね。

 氏の「騙された・史観」は、氏が尊敬してやまないであろう先輩たちに対して「蒋介石やルーズベルトに騙されてしまった程度の人たち」と指弾していることになるのではないか。
騙されるレベルの人が指導者に選抜される体制がなぜ「誇りに足る」のか、といった疑問も生じるのではないか。
氏の史観は、典型的な自虐史観ですね。

 問題は、氏のような発想力を持つ人が航空自衛隊のトップに上り詰める「システム」が発動したことでありまして。

 田茂神氏のキャリアからして、この人事は政治主導では無かったのかという疑念もあるわけで、民主党は“これからは政治主導だ”といっておりますが、かつ民主党内の内輪もめの内容を合わせ考えますと、政治家が権力を握れば万事上手く行く、かのような言説の信頼度も限りなく不透明。
 自民党はといえば相も変わらぬ“選挙目当てのばらまき”だそうですが、本音は“わが亡き後に洪水よ来れ”と、どこかの王様気取りかも知れません。

 いずれにしても「百年一度の暴風雨」に追い打ちを掛けることにことになる政治の錯乱は当分続くことになりそうです。「百年に一度」といいつつ、どこの・何が・なぜ、「百年に一度」と言われるのか、まったく理解されていないのではないか。

 自営業者はいっそうの自衛策が必要ですが、商人塾などで方向と方法を掴んだ人たち以外、プレミアム商品券その他で荏苒嵐をやり過ごそうとして目論んでいる人たちが太宗を占めている状況をなんとすべきか。
この間も「百年に一度」はあらゆる領域でさらに波及し続けています。

自分のアタマで考える・「啓蒙力」の強化

 解決すべき問題の解決策を自分のチカラで決定する、というのは当社・当サイトの一貫した通奏低音です。ご承知のとおり。
ちなみに、啓蒙=蒙を啓くとは、続に理解されている・「間違った考えを正しい考えに変える」とか「進んでいるものが遅れているものを善導する」と言うことではありません。
あくまでも「自分のことは自分のアタマを使って自分のチカラで決定する」と言うことでありまして、それ以上でも以下でもありません。この点、とくにわが国においては啓蒙といえば猫も杓子も「進んでいるものが遅れているものを善導する」という意味で理解し、信じられ、そういう立ち居振る舞いが横行しているのでくれぐれもご注意。前の記事関連で言えば、とくに転換期、とくにこれまで常識とされてきた知識に?がつく時代・状況においては気をつけないと“これからはこれが正しい”というお為ごかしにだまされたりします。

 昨日は錦通り商人塾でしたが、講義のなかで“商業者にとって「自分の頭で考える」ことはなぜ必要か”を強調しました。
お役人も会社のエライさんも、組織に所属し賃労働者である以上、「自分のアタマで考える」ことはなかなか許されません。強行すると排除されたり、そこまで行かなくても組織に参加した目的の達成に障碍が生じたりします。

 この点、商業者を代表とする小規模零細企業者は、「自分のアタマで考える」ことをポジション的に共用されているのでありまして、そういう意味ではスタート時点の資本主義をもっとも受け継いでいるのは小規模零細独立自営業者です。

 自分のアタマで考えることを放棄しては、とくにこれからの世の中では存続することが難しい。あらためて「自分のアタマで考える」ことがなぜ必要か、どうすれば「考え」に磨きを掛けることが出来るか、といったあたりについて吟味する、「考えること」や「知識」についての知識に磨きを掛けることが必要です。

 「自分のアタマで考える」という意味での啓蒙については、なんと言っても大哲学者・カントさんの
『啓蒙とは何か』が基本図書でありまして、その必要性および啓蒙力の鍛え方について誤解の余地無く説明されています。
未読の人はこの機会に一読されると一生の財産です。

 ちなみに当サイトでは依然同書に取り組んでいます。
『カント『啓蒙とは何か』を読む』
未読の人はこちらも是非読んでみてください。

 啓蒙力をどう磨くか。
カントさんはまず「批判力」を鍛えることが大事だと言っています。
「自分で考える」を実行するにあたって大事なことは、「これだけは間違いない」と思われることを基礎に据えてそれを基礎に知識を積み上げていくのではなくて、自分が既に持っている・世間に流布している・これから新しく手に入る・諸々の知識について、「自分のチカラで吟味する」チカラをつけることです。

 ちなみに「啓蒙力」とは今日思いついた言葉ですが、「自分のアタマで考える」作業をスムース、的確に行うために必要なチカラです。
その第一は「批判するチカラ」。

啓蒙にはなぜ「批判するチカラ」が必要か?
というあたりを考えるとホントにチカラが付いてきます。
さしあたっての参考書:
カール・ポパー『客観的知識(木鐸社 1974年)』は基本中の基本です。

 当記事、論点を満載しました。
「転換期」を乗り切っていく必須課題として【理論創発】で逐次取り上げていく所存です。
おつきあいいただくと「自分のアタマで考える」チカラがどんどん付いていくかも知れません。

※「啓蒙力」について
 yahooで検索してみたら既出でした。
ただし、俗流のとおり“他人を善導する能力”という意味の「啓蒙“力”」でした。
当サイトでは、啓蒙力=自分のアタマで考えるチカラを錬磨していく能力、という意味で使いたいと思います。
よその使い方とは違いますのでご留意のうえ、「啓蒙力の強化」に努めましょう。

パラダイムの転換

 このところ、あちこちで再び持ち上げられ始めた経済学者ケインズは『雇用・利子及び貨幣の一般理論』の最終章において思想が人々に及ぼす影響について次のように述べています。

 “・・・経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のある三文学者から彼らの気違いじみた考えを引き出しているのである。”

 ここでいわれている「経済学者や政治哲学者の思想」とは彼らが主張し、提供している“経済や政治を理解するためのパラダイム”のことであり、パラダイムに基づく政策提案のことです。(パラダイム=対象を理解し・取り扱うための見方・考え方の枠組みとなる知識・技術の枠組み)
パラダイムは、「それが正しい場合にも間違っている場合にも」ものの見方・考え方を決定し、行動を左右する役割を果たします。

 自然科学の場合、間違ったパラダイム(発見され・体系化されている法則)は、事実によって覆されることが可能ですが、人文系のパラダイムはそうはいきません。
間違っているパラダイムが事実によって否定されても、言いわけ・言い抜けは自由自在、つい先ごろまで世間を支配していた新自由主義・規制緩和のパラダイム、主唱者はごめんなさいと言いましたが、まだ“行き詰まっているように見えるのは改革が足りないから”という見解も聞かれますね。

 われわれはパラダイム無しでものごと、特に一定のシステムとして存在するものを把握することは出来ませんから、妥当なパラダイムを装備すること、自分が採用しているパラダイムの妥当性を吟味する機会や手段を持つことは、重要なメタの仕事ですが、あまり自覚されていないようです。
 とくに、現在のような経済・社会が「百年に一度」と言われる混乱期・転換期においては、たかだか数十年間しか使われていないパラダイムが果たして暴風雨期の最中~その後までの利用に耐えうるものであるか否かを技にすることは極めて重要な課題です。

 ケインズの言葉を中心市街地活性化の文脈に敷衍してみると、
「中心市街地活性化を実現する方向と方法についての理論家、指導者を自認する人々の主張の影響は、それが正しい場合も間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である」ということになります。
「どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。」ということもあたっているようです。

 中心市街地・商店街においては、“商業はまちの花、花を開かせるには、根や幹や枝を育てることが大切なように、商業を活性化するにはまちに住む人来る人を増やさなければならない。住む人来る人を増やさせば商業はその結果として開花する”という「思想」は、大変強くはびこっており、関係各方面の多くの「実際家」たちは自覚・無自覚を問わずその影響下にあり、「奴隷である」という状況が眼前していますからね。

 一般に自分の経験と符合する理論・パラダイムは受け入れやすく、まして競合する理論の存在を知らない場合はなおさらのことです。「商業はまちの花」理論も、高度成長期当時の商業者の経験という「実証体験」に支えられて採用されているわけです。
ものの見方・考え方は、いったん採用されるとなかなかその「間違い」に気づくことは難しい。先述したように、言い訳・言い抜けはどうにでもなるのが社会・経済・人文系のパラダイムの特徴です。
 商店街活性化の方策としての「人集め」の結果がうまく行かなかった場合も“人の集め方が足りない、もっと集めよう”ということで、いっそう拍車が掛かることになったりする。

 われわれはパラダイム無しではものごとを理解できず、ましてそれらのものごとに対応する行動を構想し、決定することは出来ません。
また、パラダイムはいったん採用されるとその結果に関わらず、なかなかその間違いに気づいて取り替えることが出来ません。

 現在われわれが直面している経済・社会の状況が「百年に一度」という大きな転換期であると考えるならば、ここ数十年間の社会経済を理解するために用いてきたパラダイムの有効性を吟味してみることは喫緊の問題なのですが、実際はそうはなっておりません。経済に関して言えば、新自由主義がもたらしている現状については、90年代にすでに多くの専門家が予測し、警鐘を鳴らしていましたが、ほとんど影響を与えることは出来ませんでした。
ご承知のとおり、新自由主義者は批判を無視しましたからね。学者の基本資質の一つは“あなたの言説が正しくて、自分は間違っているかも知れない。言論を通じてより正しい位置をめざそう”ということだと思いますが、実行している学者は極めて少ない。とくに「主流」というか実務に影響を与えるポジションにあるグループが反対派の言説と真摯に向き合うことは少ない。
そのあげく、間違っていました、ごめんなさいと土下座して、あたらし旗を振ろうという人が出たり。依然として“改革が足りない”と強弁する人の方が好ましく見えたりします。
主張が一貫していますから、こちらも態度が決めやすい。

 さて。
中心市街地・商店街の活性化という問題に取り組んでいく「パラダイムの転換」が必要だが、なかなかその機運が出てこない、というのが何処も同じ、当サイトにお出でいただいている皆さんが共通して当面されている課題ですが、オールタナティブ、「別の選択肢」の所在が知られていない、ということもその一因かも知れません。
従来採用していたパラダイムの間違いに気づくのは、新しいものの見方・考え方に立ってから、ということも良くあることです。
“こういう見方もありますよ”という選択肢を提案する機会を作ることは、支援制度がいっそう充実してくるこの時期、真っ先に取り組まなければならない仕事だと思います。

 パラダイムが変わらない限り、新しい支援制度は従来どおりの活用に終始することが確実であり、その分、新しい取り組みを試みる機会は遅れることになります。
オールタナティブとして当社が提供している方向と方法について、当社と協働する機会は、いつまでもあるわけではありません。

 餅は餅屋、「パラダイムの転換」という課題への取り組みには専門家の活用が不可欠です。
そもそも
①人はパラダイムにもとづいて行動する
②いくら努力してもものごとが上手く行かないときにはパラダイムを疑え
③転換期にはパラダイムの転換が必要だ
ということが理解されていないのですから、パラダイムに関わる作業に「専門家」抜きで取り組むというスタンスが間違っています。

 新しい動き。
その一 既報のとおり、「経営革新塾」として当社の商人塾の取り組みを計画中の商工会があります。6月スタートの予定です。
秋になると同種の取り組みが他にも出てくるかも知れません。

その二 ついにというか・やっというか、わが県都佐賀市の中心商店街で商店街のネットワークを構築しようという機運が出てきたそうです。同市の商店街の連合組織は昨年解散したそうですが、あらためて商業者の自発的な取り組みとして再構築をめざす。
「ネットワーク」の内容は分かりませんが、過去の組織の解消、個別商店街における商人塾の取り組みなどを考えますと、「パラダイムの転換」につながっていく取り組みになることが期待されます。

 実際問題としてこの時期にスタートする新しい取り組みは、パラダイムの転換・これまでの取り組みとは違う「方向と方法」をめざすものでないと始める価値がありません。
もちろん、これまでと違うものなら何でもOKというわけではなく、
①取り組んだ人が取り組まない人に比べて得をする(実際に自店が繁盛するようになる)
②自店・街の現状「見てのとおり」というレベルから無理せず取り組んでいける
③点から線、線から面への広がりが展望できる
という条件を備えた取り組みであることが必要です。

 これらの条件は、「中心市街地・商店街の活性化」の取り組みがあらためて採用する「パラダイム」を決定するにあたっての基準に使うことが出来ますね。

 パラダイムの転換は、都市経営の二大課題である
①生活条件の維持改善
②所得機会の安定確保
に取り組んでいく上でもスルーできない課題ですが、これまた理解している人は少ないようです。
「専門家」にはやきもきが続きます。

定額給付金異聞

 昨日、何の気無しにプレミアムアウトレット鳥栖に出掛けました。オープン当初からすると価格はこなれており、正規ルートの三割程度で提供されているケースも珍しくありません。
ブランドの定価五万円のハンドバッグが、一万五千円ですからピッタリの商品が見つかればたまりません。

 とある婦人服ショップで何となく聞こえてきた六十代とおぼしき女性グループの会話。

“ちょっと贅沢だけど定額給付金で買っちゃうわ”
“あなた、この前もそう言ってたわね。いったい給付金っていくらもらったのw”
“アハハハハ”

 ということで、給付金はAIDCAプロセスの最終段階の後押しになっているようでした。あり得ることですね。
マスコミは不況話ばかり、“百年に一度の暴風雨”と聞かされるとショッピングにも言い訳が必要だったりします。
定額給付金、誘い水としての効能効果があるようですが、もちろんこれは買いたいアイテムが目の前にあっての話です。

 そもそも売場に「買いたくなる商品」が揃っていれば、「買い控え」「消費不況」に突入することは無かったわけで、誘い水としての定額給付金の効能効果が発揮されたのは極々一部のお店だけ。

 給付金の行方はどうなったか?
これは振り込みに使った通帳の性格によって決定されますね。
①各種引き落とし用の通帳の場合:通常所得と同じくなし崩しに支払いへ
②貯蓄性向の通帳:そのままお預け

 定額給付金が小売店の活性化につながるには、新しい消費、新しい「買いたくなる商品」の提供が前提です。
一部を除いて新しいショッピングを体験できる機会が提供されていないのですから、給付金の効果は知れています。
対案として出ていた日々の生活に困っている人たちに重点的に給付する、というほうが福祉・経済両面からベターだったのではないか、とあらためて感じた次第です。

 アウトレットは、ユニクロ、しまむらなどでファッションの楽しさを自覚したニーズの受け皿としてこれからますますお客を集めるのではないでしょうか。
ユニクロで定価三千九百円のジーンズを買うか、それともアウトレットでブランドプロパーの商品を同じ価格で入手するか、という選択肢があります。SCで一万円ぽっきりのハンドバッグを買うのか、アウトレットでブランドのプロパー商品、定価五万円を一万五千円で買うのか、ということですね。

百貨店の「苦境」脱出

************** 引用スタート ****************
『地場百貨店続く苦境』(西日本新聞2009年5月8日)

「三越鹿児島店が閉店」

 地方都市で百貨店の閉店が相次いでいる。人口減による市場縮小に加え、大型ショッピングセンター(SC)などとの競争激化で売り上げが落ち込んでいるからだ。九州でも六日に三越鹿児島店」(鹿児島市)閉店。「百年に一度」と言われる深刻な不況も重なり、百貨店関係者は「さらに再編や淘汰が進む懸念もある」としている。

「縮む市場 不況直撃 集客の核、地域に“冷や水”」

九州の百貨店では、三越鹿児島店の保か、二月に久留米井筒屋(福岡県久留米市)、昨年三月に小倉伊勢丹(北九州市、現在は井筒屋のコレット)が閉店している。

 市場そのものが祝sちょうする名か、大規模な駐車場を備えた大型SCやアウトレットモールなどに顧客が流出。九州百貨店協会の調べでは、九州・沖縄地区にある百貨店の二00八年の総売上高は、六年連続で前年を割った。
 百貨店業界ではこれまで、地方店の不振を東京や大阪の主力店の収益でカバーしてきた。だが、深刻な消費不況で、主力店の売り上げも急減。「みずからの牙城を守るのでせいいっぱいになりつつあり、生き残りをかけて集中と選択を進めている」(大手百貨店関係者)のが実状だ。
 一方、百貨店は中心市街地の集客の核。百貨店を失う地元では活力減退の懸念も拡がる。
 鹿児島市では、三井腰の閉店だけでなく、地場の山形屋も業績不振で、九州新幹線鹿児島ルートが全線開通する十一年春に予定していた増床を延期した。両百貨店は、地元商店街と協力して同ルート全線開通後の地域活性化策に取り組んでいただけにショックも大きい。
 九州百貨店協会の大山浩事務局長は「百貨店と市街地は共存共栄。地域に根ざした取り組み強化で打開策を探る必要がある」と話した。
************** 引用終わり ***************

 ということで、「その日」が来たわけです。 
何ですか、既視感ありありという以外にない記事ですね。もちょっと書きようがあるのではないか。

 もう一本。北九州市の中心市街地では
************* 引用スタート ***************
『GW入店貨客 コレットが本店上まる・井筒屋、売上高はともに減』

 井筒屋(北九州市)がまとめたゴールデンウイーク期間中(四月二十九日―五月六日)の入店客数によると、旧小倉伊勢丹を引き継いだコレット(北九州市小倉区)が井筒屋本店(同)を上回ったことが分かった。
 コレットの入店客数は二十九万四千人で前年同期比6.8%増。本店は二十八万七千人で前年並みだった。
 コレットの年間売上高は約百五十億円で、本店(六百億円)の四分の一。両店の入店客数について井筒屋は「千円高速道路の効果で帰省客が増え、目新しいコレットに来店いただいたのではないか」と推測する。
 ただ、期間中の売上高はコレットが同9.0%減、本店が8.0%減で、販売不振は相変わらずだ。
コレットは昨年四月に開業。生活雑貨大手「ロフト」が三月に入店するなど、フロアの改装を進めている。
************** 引用終わり *************

 猫も杓子も「百年に一度」とおまじないを唱えれば、何や意味のあることをいった気になるのか、大流行りですね。

 百貨店の歴史:
①世界初のお目見得=1852年 パリにプシコー夫妻がボンマルシェをオープン
②日本では:1878年 官営第一勧工場がオープン
      1905年 三越百貨店がオープン
ということで、百貨店にとって「百年に一度」とは業態開闢以来、ということになります。
百貨店は、プシコー夫妻がボンマルシェを創業した当時以来(150年にしてはじめての規模)という「暴風雨」に見舞われているわけです。

 百貨店は、マーケティング(=業容:品揃え・販売システム・販売環境)、マーチャンダイジング、組織など経営の全般に渡って、プシコーの発明によるものでありまして、以来、百五十年の歴史はプシコーさんの遺産の食いつぶし、付加されたことと言えば、テナント間貸し、消化仕入れ、会員制といずれも創業の理念に照らせば?のつく工夫ばかりです。業容を見ても「ショッピング意欲」をそそられるような
仕掛け工夫はほとんど無し、ホントに劣化の一途を辿っているのが百貨店の売場です。

 ボンマルシェ創業以来百五十年にわたって、百貨店というパラダイムが続いているわけですが、とりわけ1980年代以降は業容の劣化が目立っています。
プシコー夫妻創業の精神を拳拳服膺すれば、「大衆消費社会」の入り口~普及段階のパラダイムと、成熟~転換期のパラダイムは当然しかるべき変化がなければならないのですが、果たして百貨店業界にそういう問題意識があったかどうか。90年代以降の業界の動向を見れば、プシコーさん以降、業界が理論的な自己認識を作り上げるという作業に取り組んだ形跡はありません。後発のGMSなどにも共通していることですが。

 百貨店は存在意義を失って久しいわけですが、危ないことに今日至ってもなおそのことが認識されていません。
業績がふるわないのは、専ら景気のせい、立地のせい、SCのせいということで、ショッピング客から見れば“あってもなくても別にどうでも良い”と評価されていることが分かっていない。

 あらためて百貨店創意の理念に立ち戻り、脱・大衆消費社会において百貨店が担うべき、創造すべき「ショッピングの場」を構想、実現する以外に生き残り=繁盛する道はないと思われます。
とりあえず、トップから売場まで、
鹿島昇『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書1991)
再読三読して“転換期の百貨店”のあるべき業容を考えて見ることが緊急の課題です。
とりわけわが国の百貨店業界のスタートは、江戸時代から続く老舗呉服店の業態転換で切られており、その組織のあり方はプシコー流とは雲泥の違い。雀百までといいますが漏れ伝わってくるわが百貨店業界の組織風土は、分業組織のはずがヒエラルキーを形成する風通しの悪いものだとか。
 革命児の出現が必要かも知れませんが・・・。

 “こういうチャンスに直面しているのか!”と早く気づいてチャンスをものにする取り組みをスタートさせないと百貨店は文字通り過去の遺物・シーラカンスになってしまいます。 

年度替わりの一服状態

 年々歳々。お役所の年度替わりに合わせて、中心市街地活性化、商店街活性化の取り組みも一服、というのが例年の慣わしですが、もちろん事態はそんな悠長を許すものではありません。
お客の買い物には年度替わりなどは関係ありませんから、“顧客指向”をめざすなら、年度の変わり目などには関係なく、活性化実現の方向と方法を実践しなければならない。

 今年は「定額給付金」に呼応した「プレミアム商品券」の取り組みで忙しい年度替わりだったかも知れませんが、成果の方はどうでしょうか?
結果は取り組む前からはっきりしておりまして、
①いつも売れているお店は売り上げが若干伸びる
②売れていないお店はそのまんま
ということですね。
 いずれにしても共通しているのは「一過性」であること。
売れた店も売れなかったところも、期限が過ぎれば元の木阿弥、なんの効果も残りません。
効果どころか「繁盛店」として生き残れるか否かの大勝負に取り組まなければいけない時期に「商品券」などに取り組んでいるわけですから「業容劣化」は取り組みの間もその後もどんどん進んでいきますね。

 商品券の弊害:成果が挙がると思ったのに挙がらなかったので
その一 “やはり、商店街活性化はもう無理だ”という諦めムードが強化される

その二 商店街活動への付き合いはやっぱもう打ち止めだ
と決意する人が増える

その三 「活性化」のかけ声で人が動かなくなる

 というように、百害あって一利も無いのがこの時期の商品券ですね。
“やらないよりやった方がいい”とか“商店街のまとまりが保てる”という弁解も聞こえてきますが、なぜやった方がいいのか、「まとまり」って何のために必要なのか、というあたりは不問のままですから、従来的・地縁的関係を維持するためとしか思われません。地縁関係を維持することで商店街が活性化できるのならどうぞ頑張ってください。

 商店街の現状は、販促活動などを云々出来る業容ではない、ということに思い至らないようではこの時期のリーダーは務まりません。この時期、店頭に「商品券使えます」といったのぼりを立てるのは恥ずかしいことだという美意識が乏しいようではラグジュアリィ化しているお客の心には届きません。
われわれは「あってもなくても困らないが、有ったほうが生活が楽しくなる」という商品・サービスを提供するのが社会的使命、商品券で釣らないと売れないようなお店には商品券の効能効果ははじめから期待できません。

 さて、連休も終わり、いよいよ「もの離れ」への対応が本格化しなければならない時ですが、商店街では「商品券」ののぼりがはためいているだけ、というのは情けない限りです。

 もちろん、中には継続的に繁盛をめざしているところもありまして、6月スタートで「経営革新塾」事業での商人塾開催を計画している商工会、連休中に商店街のブログを立ち上げた商店街など、元気の出るニュースも伝わってきます。
皆さんの商店街、連休明けからの取り組みはどうなっていますか?
一服ばかりしていると、ずうっと一服状態が続くことになりませんか?

錦通り商店街のブログ:

啓蒙について

 理論創発コーナーのメインテーマです。

 もともとの意味は“自分の頭で考える”ということですね。
“自分の頭で考える”の第一歩は、人の話を鵜呑みにしない、ということであり、鵜呑みにしないためには自分の頭で咀嚼しなければならない、頭で咀嚼というのも変ですが。

 人の言説を咀嚼する、すなわち、述べられていることを批判的に検討するためにはそれなりの知識・技術が必要でありまして、学校などで「読み・書き」についで修得したいところですが、ほとんど顧みられていないのではないでしょうか。
特に、受験勉強という一本道をわき目もふらずに歩いてしまうと、必須能力を身につける機会が無かったりするのではないか、もともと「拠らしむべし」ですからね。

 啓蒙が必要なのは、インプット~アウトプットという作業において「~」部分を担う能力は、みずから意識的に涵養しないとなかなか身に付かないのではないかと思われるからです。
昔は「~」部分はお上や専門家が独占しておりまして、彼らはそれなりに「~」を担うスキルを持っていたのですが、バブル崩壊以降、彼らのスキルでは処理できないことが多くなっているわけです。というか、処理しようと思えば出来るのですが、その結果としての「アウトプット」がほとんど使い物にならないわけですね。

 マスコミの劣化とか情報劣化とか言われますが、その背景には情報処理能力の劣化があるとみなければならない。
自分たちが装備している情報処理のノウハウで対処するとトンデモなアウトプットになってしまう、ということに気が付くべきですが情報処理について「メタ」の勉強をしていないと、なかなかそのことに気づけないかも知れません。

(続く) 

人材育成事業

創業塾・経営革新塾ですね。

 この制度を利用して商人塾に取り組みたいというオファーを受けまして、「実施要領」をフアックスしていただきました。
結論から言いますと、地元の条件が整えば「持ってこい」の制度だと思います。

 実施したいが経費的な問題がクリアできない、というところはこの制度の利用を検討されることをお奨めします。

 もっと手っ取り早いのは、商店街の有志がローンを組む、という方法です。一人頭いくらになるかはそれぞれですが、少なくとも自店の繁盛の基礎を再構築しようとするわけですから、十万単位を割賦で負担するいというのは出来ない話ではないと思います。
支援制度の利用が難しい場合は、百パーセント自分たちで負担する、ということにならざるを得ない。
それでも取り組む必要と値打ちがあると判断するかどうか。

新書で読み解く時代の今(その2)

□バブルの崩壊

日 本
■松原隆一郎『消費資本主義の行方』平成経済20年史』ちくま新書 2000年
欧米・日本の経済を「消費」を視座に解説、現段階を「消費資本主義」というキーワードでとらえています。

平成の時代はバブル崩壊から始まり、それからちょうど20年、米国の金融バブルの崩壊で新しい局面を迎えています。
このまま行けば“企業は人を捨て、国を捨てる”、捨てざるを得ないという流れがさらに本格的になっていきます。
グローバリズム総本山・米国と一蓮托生という構図はいつまで続くのか。

米 国
■水野和夫『金融大崩壊』NHK出版生活人新書 2008年
■本山美彦『金融権力』岩波新書2008年
■神谷秀樹『強欲資本主義ウオール街の自縛』2008年
ニューエコノミーがバブルであることが実証されたわけで、ここから新しい産業の構築へと向かわなければならないわけですが、「強欲」&「クローニー」が心機一転、救国路線への転換が出来るかどうか。

 バブル崩壊は常に「信用崩壊」ですから、いわゆる不景気、循環型不況などとは性格がまったく違います。
あらためて資本主義が成立・維持可能な基礎条件を振り返ってみなければならない。

■企業理論
生産と消費の“蜜月”の終わり
「会社での仕事の代償としての賃金で消費財を入手し家族との生活を営む」
という高度成長期までのライフスタイルが崩壊過程に入っています。
会社を「利益追求の手段」と見なせば、当然そこで雇用している従業員も手段であり、会社の都合でどうにでも扱えることになります。
他方、従業員は家に帰れば「消費単位の担い手」ですから、所得が安定的に確保されないと消費がままならず、結果、会社の収益に負の影響が現れます。利益を確保するための首切りが回り回ると収益の減少として戻ってくるわけです。「合成の誤謬」です。

あらためて企業とは何だろうか、ということが問われるわけで。

■資本主義における組織

□奥村宏『会社本位主義は崩れるか』岩波新書1992年
“会社は株主のもの”とは何を意味するのか、そういう考えで会社の存続は確保出来るものかどうか。
株式会社と資本主義の相性はほんとうによいものかどうか、というあたりまで考えてみなければならない。

□田中弘『時価会計不況』新潮新書2003年

 コロンブス・冒険貿易の時代、口別会計の手法として発明された複式簿記を期間会計に応用した結果、財務諸表は企業実態とはかけ離れた数字の羅列になっているわけですが、これに輪を掛けたのがいわゆる「時価会計」ですね。
土地、株式などの「時価」は曲者であり、会社が保有する資産を“時価で評価する”とはどういうことを意味するのか?
専門家で時価会計に批判的だった人は田中さんなど極めて限られているようです。

■長期的な視点では

1.“生産と消費の蜜月”の終わり
①消費側:どうにかして手に入れたい、というレベルの消費財が無い。
②生産側:市場の拡大が期待できないなかで利益を確保するには
 ○人を減らす
 ○海外市場に進出する
 消費サイドは、“欲しいものが無い・所得は減る”ということで、高度成長期の“欲しいものがあれこれある・所得は増える”という条件とは正反対になっています。
この基本的な条件を打開しないまま、利益を追求すれば事態はますます悪化するわけで、何兆円、何十兆円ばらまいてもブーメランです。家計で使われないお金はバブルに向かう以外にありませんからまたしてもデリバティブが生まれ、バブルとなり崩壊する・・・。

 その間隔がどんどん短くなっていくうちに「国家」の信用が崩壊すると・・・。

 というように考えますと「都市経営」を取り巻く状況の「未曾有性」には、恐ろしいものがありますね。
乗り切っていくためには、これまで使ったことのないレベル、内容での能力の発揮が必要ですが、問題が適切に把握されていないと能力を使うことも出来ません。
こっちの方にも大きな問題があるわけで、
①未曾有の問題に直面しているにもかかわらず、そのことが十分理解されていないために、
②適切な対応を講じるために必要な「能力」が確保されていない
ということです。

 こうしてみると、「中心市街地・商業の活性化」という問題がまさに時代を象徴していることがよく分かります。

 手持ちのそれも新書だけで、という設定は難しかったようです。とはいえ、今をどうとらえるか、ということは重要な問題ですから、後は引き続き【理論創発】で取り組んでいきたいと思います。
なお、この記事は適宜加筆修正するつもりです。
有限会社クオールエイド
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有限会社 クオールエイド

  • Author:有限会社 クオールエイド
  • 【キラリ輝く繁盛店づくり】
    お客に見える店づくり―見える化をテーマに【個店の繁盛】から【商店街活性化】、【中心市街地の商業集積としての再構築】まで一貫した取組を支援します。
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