FC2ブログ

都市自衛の時代

 昨夜のNHKスペシャル、ご覧になりましたか。
「企業は人を捨て、国を捨てる」という昔読んだ本のタイトルを思い出しました。

 社内業務を中国へアウトソーシングする、ノウハウが出来たら他社の業務もそちらで受託する、という流れが出来ているというレポートでした。
「競争に勝ち抜くためにやむを得ない」わけですが、「何で勝ち抜かなければならないか」といえば、「会社が存続するため」であり、「存続すべき会社ってなぁに」と聞けば、さて、どういう答えが返ってくるでしょうか・・・。

 工業化社会の良かったところは、生活を向上させるために必要な財の生産に「人手」が必要だったこと。働いて賃金を得て生活財を購入する、というサイクルが程良くスパイラルを描いていたのが高度成長期までの社会でした。
「終身雇用」とか、「会社は永遠です」とか。

 バブル崩壊を機に「工業と人間の蜜月」はお終い。
もはや“人は雇わない、しかし、商品は買ってもらいたい”というのがポスト工業社会において「工業化時代の発想ヲ続けている」企業の本音でしょう。

 他方、都市はそうはいきません。「住民の福祉の維持増進」を目的とする都市経営は、廃業も移転も出来ません。
何としても「生活条件の維持」と「所得機会の確保」に努めなければならない。
 特に、これまで企業の営利活動に委ねてきた「都市住民の所得の確保」という課題を都市自身の課題ととらえ直して、その実現に取り組むことが重要、いちはやくこのことに着目する都市とそうでない都市の間にはものすごい格差が生じます。新しい格差は「着目の方向と着目した時期」によってもたらされます。

 絶対にしてはいけないことは、従来の思考パターンのまま,“大変な時代、危機が迫っている・切りつめなくては”というネガティブな発想におちいること。
コスト重視のコンパクトシティ志向とか。

 激動の時代ですが、これをチャンスと見るか危機と見るかは、どういう視点を持っているか、望ましいあり方と現状のギャップを的確に認識し、かつ、そのギャップを克服していく方向と方法を案出出来るか否かにかかっています。

 視点としては「ポスト工業化社会」が目指すべき方向を見誤らないこと。
工業社会が達成した「生産現場に人手が要らない」という状況をプラスと見て、そこから新しい所得機会を工作していくことが求められています。
新しい切り口は「時間堪能・ラグジュアリィ」です。
これは中心市街地の商業活性化のテーマに限ったことではありません。

 ものの生産は手段であり、大事なことは高度に発達して生産手段を活用してどんな生活を作り・堪能するか、ということがポスト工業化社会の課題であり、いちはやく新しいニーズに向けた画期的なマーケティングを創発していくことが、都市経営の戦略課題です。

 中心市街地活性化は、この文脈でとらえ・知恵を出していかないと目的をたっせいすることはできません。都市がこれまでと同じ生活条件の提供にとどまろうとするならば、中心市街地は不要ですからね。

 ということで、ポスト工業化社会の都市経営、「時間堪能・ラグジュアリィの享受&提供」という未だ明確にはなっていないニーズをこじ開けていくところに新しい・これまでとは質的に異なる成長機会があるのだ、と考えるのはtakeo的妄想でしょうか。
中心市街地で商店街を中心にラグジュアリィ市場が構築されれば、その結果は川上産業に波及します。
日本消費財産業界の「ラグジュアリィによる再編」はわが国がこれから世界に貢献していく道を切開します。

津田真澄『企業は人を捨て国を捨てる
(used 0円 昭和63年刊 お奨め度★★★☆☆)
あの時代にこういう話があったのか、ということをかみしめ、わが国・都市の行く手は「ラグジュアリィ」しかあり得ないことを確認しましょう。
新しい道を切り開くのは企業ではなく都市だと思います。

ブログランキング

Introducing・・・

ツィゴネルワイゼン(Zigeunerweisen)

Gabrielle Chou 10歳のときの演奏です。(現在12歳)


ブログランキング

gyao

 現在、『ハンニバル』を上映中。
久しぶりに見ましたが、やはり第一作とすると見劣りします。

 パッツイ刑事のエピソードは面白いのですが、最期はレクターの趣向とはえらい違い、なんで嗜好を駆け引きに使うわけ? 
ということでここは監督じゃなかった、作者の自作自演・受け狙い、ですよね。

 しかし、例によってハンニバルのセリフにはしびれるものが多く、今回あらためて、刑事との会話にウ~ムといわされました。
“身につまされる”は中語で「感同身受」とか。

 『羊たちの沈黙』ではクラリスに対する“羊たちは沈黙したか”というタイトルにもなっているセリフがありました。
羊といえば羊飼い、羊飼いといえば流れとしては大審問官、奇特な人がいます。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro-t.html

再読した人の所感

 松岡さんは“21世紀は「方法の時代」”と〈予想〉しています。
当サイト的には「方法論の時代」でしょうか。


ブログランキング

「考え方」を考えてみる

方法論:研究方法そのものについての学問的論議(新明解)

 研究に限ったことではなく、われわれは、未知の対象や状況で「問題」にぶつかったとき、“これはなんだ?”という問に続いて“これはどう考えたらよいのだろうか?”ということを考えなければいけないことがあります。
なにも「学問」に限ったことではありません。

 ふつうならば“これはなんだ?”という疑問が起こると、手持ちの情報について検索して、“同じケースは無いか”、“似ている辞令はないか?”と照合して、落ち着き先を決定(分類)します。
この方法は、「未知のものを既知のものと照合して理解する」という未知のものを理解するための方法の一つです。

 本当に今まで経験したことのない対象や問題にぶつかった場合はどうでしょうか。
手始めはもちろん、既存の情報とつきあわせ、しかるべき分類に所属させられないかどうかを検討します。
どうも、これまでの情報では納得できる理解に至ることが出来ない、というとき、“どう考えたらよいか”という問題が起こります。“考え方という問題”すなわち「方法論的問題」が生まれるわけです。

 「中心市街地活性化」について考えてみましょう。
これまでの取り組みは、“従来「点」や「線」の取り組みでうまく行かなかった商店街活性化を、「面」で取り組むことで達成する」と言われたように、「方法」としては“従来同様の取り組みを規模的に拡大する”ということでした。
しかし、うまく行きません。そこでスキームを改正して、「住む人・来る人を増やす」という+アルファに取り組むことになりました。
 しかし、藻谷さんの言説の批判など、当サイトがキチンと検討し批判しているように、この路線では活性化を実現することは出来ません。どうしたらよいか?

 というような場合に登場するのが、「方法という問題」です。
“空き店舗は埋めれば良い”、“SC時代の商店街活性化はSCの手法を導入すればよい”といった「即応的パターン」の破綻を踏まえれば、“どうしたらよいのか”を「どう考えるべきか」というレベルからあらためて考えてみよう、ということになるわけです。

 多様な対策を講じてきたにも関わらず、長期低落という趨勢には止めが掛かるどころか、「加速」という傾向さえ見られる今日、“問題のとらえ方を考え直してみる”というアプローチは当然あってしかるべきでしょう。
“スキームが変わったから、新スキームに合わせて従来どおりの事業群をセットすればOK”認定はそれでOKかも知れませんが、「活性化」の実現はどうでしょうか?
「スキーム」は“この枠に納めれば中身は何であろうと「成功」させることができる”、魔法の器ではありませんよ。

 新スキームの登場、新・基本計画の作成という課題の登場を契機に取り組まなければならないことは、“「考え方」を考え直す”ということです。
幸い、今度は「中心市街地の定義」も示されていますし、これをアレンジすれば、「我がまちの中心市街地活性化」を定義することが出来ます。これをどう活用すべきか?

 これまでの取り組みでは、通行量が減ったといえば通行量増大策、空き店舗が増えれば空き店舗活用、郊外に大型店が出れば規制する、といった「現象即応」という手法で取り組んできました。
「対症療法」ですね。これは“見ればわかる”状況を変えようとすることであり、たとえ成功したとしても“状況が起きた真の原因”
の解決になるとは限りません。
“分かる人には当たり前のこと”、“分からない人は今でも分かっていない”かも知れませんが。

 わが街だけならいざ知らず、何しろ中心市街地という中心市街地、何しろ都市という都市ほとんどすべてにおいて、「状況即応体制」がことごとく失敗しているとするならば、「考え方」を変えることが必要なのではないか?
「中心市街地活性化という問題の考え方」についてもう一度考えてみるべきではないか?
という問題意識が生まれてくるのは当然です。

 “「考え方」を考える”。「方法論的問題」ですね。
 目下、新スキームへの「即応」を目指して新・基本計画作成の取り組みがたけなわですが、さて、“これまでの延長上の取り組みではうまく行かない”という判断に立ち、“取り組み方を考えてみる”=「方法論的レベルの問題」としてアプローチしている都市が幾つあるのか、残念ながら、これまでにネット上に公開されている基本計画の多くは、「方法の問題」を直視しなかったようです・・・。

①問題を明確に定義する
②問題を構成している要因を分析する
③解決の方法を案出する
④取り組みを計画する
⑤計画を実行する
という問題解決のプロセスは、「問題解決」という作業では一般に取られる方法です。

中心市街地活性化という仕事が直面している「方法論的問題」は、第一に、「問題解決のプロセス」を検証してみること。
たとえば、上記の「問題解決のプロセス」などを参考に、
“取り組みの各工程における「取り組み方」に問題はなかったか?”検証してみること。

  もちろん、当サイト常連の皆さんは、取り組みの経緯・現状から「考え方を考える」ことの必要性を痛感し、参考事例を渉猟する過程で逢着されたという方がほとんどであり、「考え方を変える」という喫緊の課題への取り組みの最先頭に位置されているわけですが、路線をどう切り替えていくのか?
「切り替え方」の方法論的検討も必要かも知れません。

 目的・目標を明確に定義し、達成に向けて必要な事業ミックスを構成、一体的に推進することで「活性化」を実現していく「活性化への道」を描くこと、「現象即応」に変わる新しい方法の選択に向けた取り組み、うまく行く方法を案出しなければなりません。

 再度強調!「新スキーム」について。

“「スキーム」は“この枠に納めれば中身は何であろうと「成功」させることができる”、魔法の器ではありませんよ。”

このスキームに何をどう組み込んでいくか、あらためて考えてみよう、というのが中心市街地活性化というお仕事が直面している「方法論的問題」です。


ブログランキング

「理論」はなぜ難しいのか?

 哲学・経済学などを先頭に「理論」はなぜチンプンカンプンなのか?
理論が語っている対象が経験からかけ離れていたり、あまり複雑過ぎたりすると当然、その説明も難しくなるだろうと思いますが、そういう本来の難しさではない、やたら文章が長かったり、あまり他ではお目にかかれない熟語や言い回しが多用されていたり、おまけに特に「定義」などがちゃらんぽらんになっているなど主として「書く」側の問題で、ムリに読み進んでも何がなにやらさっぱり分からい、という事態が起こることがあります。「難しい」「付いていけんわ」となるわけです。
 研究してその成果を教授することを役目とするえらい先生が書いたのだから、理解出来無いのはこちらが頭が悪いから、それにしても○○学は難しい・・・・。

 当サイトでは「自力思考」を唱えていますが、これはもちろん、一から十まで自分で自前のアタマをもって考えよう、ということではありません。先行する理論・知識を大いに活用しつつ、自分の考えをまとめていこう、ということです。
 
 先行理論には大いに学ばなければならない。
ところが、一念発起、学びたい肝心の「理論」が難しくて手も足も出ない。それでもこれを理解しなくちゃなんない、というときは。

 あらためて、難しいのは理論の内容なのか、それとも理論の書き方なのか、ということを考えて見ることも必要ではないでしょうか。

 欧米では、学術的な理論も専門用語を除けば、全体的に平易な当用語で書かれているとのこと、「啓蒙」の時代、それまで理論といえばラテン語一辺倒だったのを苦労してそれぞれ自国語に移した、という経緯を持っていますから、当たり前といえば当たり前かも知れません。それでは日本の当時の事情はどうだったのか?

 一貫して市井にあられる哲学者の長谷川宏先生は、難しくない『新しいヘーゲル』のなかで次のように喝破されています。
まず、当時の事情としては、
①ヨーロッパの理論が大量に移入されたのは、幕末~明治にかけて。
 その内容はわが国の伝統的な「知識の体系」とは隔絶していたので、そのままでは翻訳が出来なかった。

②新しい知識体系を日本語に移し替えるにあたっては、新しい概念用語が必要であり、三文字・四文字の熟語を新しく創って対応した。
 結果、一般にはなじみのない用語が羅列されることになった。

③移入第一世代の訳は、前例に乏しく生硬・難解になることはやむを得なかった。

 ということだったわけで、そうしますとそれらを踏まえて書かれる国産の論文等もまた同様の性行を強く持っていたわけです。

 ところがその後、年月を重ねるうちにもっと分かりやすく、読みやすい書き方が現れてしかるべきだったのに、どうして今日に至るまで理論といえばそろいもそろって難しいのか?

 理論の移植を受け持った人たち、それを承継した人たちは、先進的な学問をわが国に移入する、という任務を果たしたわけですが、それは、担当した個々人にとってみれば、生活の糧を得る機会であると同時に、社会的地位を確保する機会でありました。
 担当した人たちは、頭脳明晰、優秀な人たちだったわけで、理論の書き方をもっと「分かりやすく」せっかく入手したポジションを維持していくためには、「参入障壁」が有った方が良いわけで、スタート時点の事情で「難解」に出来上がっていた移植物は、改善されることなくそのスタイルを踏襲された、というわけです。
(以上、長谷川宏『新しいヘーゲル』13~17ページを踏まえて)

 宗教の教義などはともかくとしして、本来、理論は理解され、批判的に検討され、改良されていく、ということを期待しなければならない性格の知識です。
これが限られた範囲の人たち以外にはチンプンカンプンの文章で書かれる、というのはどうしたことか?
その理由は、長谷川先生の上記の本に書かれているとおりですが、takeo的には他にも理由があるのではないか、と思い当たりましたので。

 十八世紀の中頃、大阪で活躍した富永仲基という「町人学者」がいます。
「仲基の前に仲基無く、仲基の後に仲基無し」という言い方がこれほどぴったり来る人はそうそうありません。どういうように空前絶後かと言いますと、長くなりますので自分で読んでみてください。
日本の名著18』 

 富永先生によれば、古来、人間のものの見方・理解の仕方には「癖」がありまして、生まれ育った社会通有のものの見方・考え方を受け継ぎます(と、富永先生曰く)。

 インド人の癖は、「幻」だそうでありまして、“芥子粒の上に世界を乗せる”といった荒唐無稽な言説が何かの拍子に「実証」されると、一挙に理解され・確信される。 「悟り」ですね。「手妻」すなわち手品仕掛けの折伏とかも仏教以前からあるわけです。

 中国では文辞、弁舌、言葉のあやだそうです。今で言えばレトリックですね。道を説き、人を導くときにはこれを上手に使いこなさないと誰からも相手にしてもらえない。

 さて、では日本ではどうか?
日本人のくせは「秘」、隠すことだそうです。
「神秘、秘伝、伝授」ということで、何ごとに限らず「ただ、隠してばかりいる」のが日本人の癖であると、仲基先生は申されます。

 教学・学術はいうまでもなく、“演劇や茶道のようなものまでこれにならい、伝授印可という仕組みを作り、その上階段を定めて生計のためにするものになっている。まことに惜しむべきことである。その秘伝・伝授というものを作った理由をたずねると、その能力が熟していないものにはすぐに伝授するのが困難だから、と答える”

 というように、「秘伝」を限られた仲間うち、相当の条件をクリアしたものだけに限って相伝していく、というわが国古来の「くせ」もまた、舶来理論の「難解化」に力を添えたのではないか、と愚考する次第です。

 学の世界で生まれた「難解ぶりっこ」は、もちろんそこで薫陶を受けたのち、実務の世界に舞い降りてきた皆さんにもそれなりに「くせ」として承継されておりまして、われわれの周囲にもチンプンカンプンを振り回す人たちには事欠きません。
「何ごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌もありまして、「分からないほど・分からないが故に有り難い」という倒錯もあったりするのが、「」くせ」ですね。

 こういうくせは「敬して遠ざける」というのがノウハウだと思いますが、そうばかりも言っておられない状況がありまして、「らしいコトバ」が飛び交い、質問はご法度の「中心市街地活性化」はまさしく「くせ」がはびこる場となっているのではないでしょうか?

 さらに、極論すると中身の空虚を隠蔽するために「鬼面人を驚かす」わざとわかりにくくする、分かりやすいとぼろが出るから、ということもなきにしもあらず。
経済学の効用は経済学部の存続にある、という人もいますからね。

 ということで、我が父祖伝来のさまざまなくせのうち、「悪いくせ」をあらためていくには、「分からないことは質問する」という態度に徹することが必要ではないか、もちろん自問自答を含めて、ということであり、そのためにはなによりも「分からないこと・理解できないことは質問する」という新しい「くせ」が通用する「場」を作ること、つまり、いつでもどこでも質問することをためらわない空気を醸成すること、率先実行することが肝要ではないか、などと考えたりしているお盆の一日です。

 ちなみに、「理論は分かりやすいのが当たり前」と考える学者もありまして、長谷川先生や、カント『啓蒙とは何か』を新訳で出された中山元先生。ちなみに両先生はいずれも学校の教師ではありませんが、もちろん他にも教師を含めて「分かりやすい理論」を志向する人が増えており、理論の性格を踏まえた理論が提供される、というあるべき状況が実現しつつあります。
これが出来てはじめて「姿勢的にも理論的」ですね。

※仲基先生の業績については、あらためて理論コーナーで紹介します。著作で伝わっているのは『翁の文』『出定後語』の2冊だけ。どちらも上掲の本に収められています。
当サイトの常連さんなら楽しんで読めます。現代語訳です。

※最後に質問。
あの、当サイトの文章って、ぜんぜん・全く、難しくなんかないですよね? もちろんw


ブログランキング

自力思考

自力思考:自分のことは自分で考える

 当ブログの〈通奏低音〉です。
自分のアタマで考える、とも。
特に現代日本においては、小学校から職場まで、イヤというほど聞かされます。
(ただし、一部の流通業界においては、一時、自分で考えるな、商業のエッセンスは米国にある、米国のノウハウに盲従せよ、と言うことになっていましたが、これは例外。)

 一方、自分の頭で考えるように、と言われる側もそう言われたからといって悪い気はしません。だからといって、自分の頭で考えるために努力をするわけでもない・・・。
自分の頭で考える、だれもが心掛けるべき大事なことのようですが、さて、あなたは自分の頭で考えていますか?

 “自分のことは自分で考えよ、世間の常識や「後見人」の意見に盲従するな”とは、「啓蒙主義」の主張ですが、わが国に入ってきたのは「和魂洋才」の時代。正しいのは舶来思想、撲滅・蒙昧封建思想というわけで、「啓蒙」は“進んでいるものが遅れているものの蒙を啓く”と理解されまして、学者さんたちのおまんまのタネ、本場の啓蒙主義が批判の対象としていた「後見人」の座を占めて現在に至っています。

 ビジネス書とか自己啓発書とか、私はほとんど見ないのですが、たぶん、「先入観を取り払って白紙の状態で見よ」とか「自分の力で考えよ」とか、お説教が述べられていそうです。問題は、自分の頭で考えよという提言はあっても、自分の頭で考える、とはどういうことか?
何を考えるのか?
どう考えるのか?
等々についてはほとんど参考になるようなことは書かれてないだろう、ということ。読まなくても分かる。

 「先入観を取り払ってものを見よ」といわれても、われわれの“ものを見る眼”は「先入観」そのもので成り立っていますから、これを取り払ったら見るべきものが見えなくなります。
「缶ビール」が缶ビールに見えるのは、缶ビールについての先入観を持っているから。先入観を取り払って缶ビールを眺めたらなにが見えると思いますか?

 というように考えてみれば、俗流「自分で考えよ」のデタラメぶりがたちまちバレバレです。自分で考えよ=おれが教える通りに考えよ、だったりして。

 当ブログでは、「問題解決過程を支援する」ことをなりわいとするtakeoが、「問題解決能力を向上する」という課題に取り組んでおいでの皆さんに「自分の力で考える」ことについて、あれこれとご披露・ご提案して、一緒に考える機会を持つことで、お暇つぶしがてら「特段の努力をせずに問題解決能力を向上する」機会も提供したいと思っています。

 うまく行けば、このブログとおつきあいいただくとアタマがよくなるわけですね。一度「頭が良くなる法」を修得すると、これからの一生、とどまることなくどんどん頭がよくなります(笑 

が、その前に。

「自分の頭で考える」ことはなぜ大切か?
大切だ、ということについてはほとんど異論がないはず、だれに聞いても“その通り”と返って来そうですが、

なぜ、自分の頭で考えないといけないのか?
そもそも、自分の頭で考えるとは、どういう作業のことか?
あらためて自問してみると、ウ~ム、となるはずです。

 まずは、このあたりのことをあれこれ考えることを通じて、「自分のアタマで考える」ことを理解する、自分のアタマで考えるために必要な技術や準備したほうが良いことなどを明らかに出来ればと思います。
とりあえず、クオールエイドでの考察を紹介しておきます。
カント『啓蒙とはなにか』を読む
カントさんが登場ですが、内容はシンプル、分かりやすい話です。


自力思考を強化するぞ!で。
ブログランキング

マネジメントとレトリック

おかげを持ちまして当ブログ、ジャンルのランキングにも登場するようになりました。今日は、ジャンル多方面にむけたコンサルタントについて書いてみます。

経営コンサルタントという職能があることを発見したのは、“世界最初の経営コンサルタント”を自称した故・ドラッカーさんですが、コンサルティングを「要請に応じて問題解決過程を支援する」と定義すれば、ドラッカーさん以前から、古今東西、コンサルタントは山ほどいます。孔子さんとかね。
もちろん、「他人の問題解決を支援する」という経験は誰も持っているわけで、「誰もがコンサル」といったのはワインバーグさんでした。

 以前のコンサルタントさんたちと自覚したコンサルタント・ドラッカーさんの違いはどこにあるのかといいますと、ドラッカーさんの場合、コンサルタントがクライアントを支援するのは、「主に言葉の領域」においてであることを発見したこと。ま、当たり前といえば当たり前ですが、コロンブスの卵です。

 「マネジメントとは言葉を形にすることである」、ドラッカーさんの言葉ですが、このように定義すれば、マネジメントを支援するコンサルタントは「言葉を形にするプロセスを支援する」職能だということになります。
言葉を形にするという仕事は、まず、“思っていること・期待していることを言葉で表現する”ということから始まります。
大事なことでありまして、「思い」「考え」を“どう表現するか”、表現のしかた如何によってその後の展開が大きく左右されますから、スタート時点の「思い・期待を言葉で表現する」作業はとても重要です。
たとえば「コンセプト」つくりなどはその最たるものでしょう。

 コンサルタント(「誰でもコンサル」!)にとってレトリックは、磨きに磨きを掛けなければならない、職能上不可欠の武器です。

 「言葉で表現する」とは、当ブログでは既におなじみ、「レトリック」の問題です。レトリックとは“対象を言葉で表すこと、その技術”ですから、マネジメントとレトリックは切っても切れない関係にあります。問題は定義次第で解けたり解けなかったり、解きやすかったり、解きにくかったりしますから。
もちろん、コミュニケーションという問題もあります。

 問題を定義するときは「解答がでやすいように定義せよ」とは、これもコンサルタントの大先達である上述のワインバーグ先生が喝破されるところです。

“誰もがコンサル”、―技術アドバイスの人間学―、この本はきっとあなたのスキルアップに役立ちます。

 ついでにレトリックについては、→参照
特に第一章と第二章は熟読あれ。


 話がよれよれになっていますが、定義上、マネジメントは、ビジネス、経営といった分野に限られません。“言葉を形にする”仕事があるところ、そこには必ず「マネジメント業務」が存在します。
 “よりよく生きる”、内容は人によってさまざまですが、このことを否定する人はきわめて少ないでしょう。よりよく生きるとは、「よりよく生きる」を「形にしていくこと」ですから、つまりマネジメントが不可欠です。

 そしてさらに、マネジメントあるところ、必ずレトリック(=思いを言葉にする)が先行しています。「よりよく生きる」ためには、マネジメントが必要であり、良いマネジメントは、レトリック技術に負うところが大きい。

 ということで、当ブログは、「中心市街地活性化」という問題の解決過程の支援にあたっているコンサルタント・takeoが、支援に必要なマネジメントとその基盤であるレトリックについて、あれこれ・ぐだぐだ、書き散らかして、お暇つぶしに供する“パスタイム”という位置づけですが、マネジメント、レトリックの関係などについて、ひょっとしたら「筆が滑って(笑」、新しいことを発見したり、あるいは先人の遺産で忘れられていたこと発掘したり、という「成果」が突発するかも知れません。

 ということで“面白そうじゃん”とか“眉唾だがちょっとだけなら”という人,おつきあいください。
そこから何を得るかはそこに何があるかということより、そこで何を考えるか、といういことのほうに多く掛かっているような気がします。当ブログ、たまぁ~に皆さんの「思いつき」のきっかけになるようなことがあればなによりの幸いです。

※クオールエイドのサイトからおいでいただいた皆さんへ
 ご覧の通り、記事の大半は活性化話であり、サイトの「デイリーフラッシュ」欄からの横流しですが、時に、今日みたいな記事を書き下ろしたりもしますので、サイト常連の皆さんも、ときどき当ブログのチェックもどうぞ。

ということで。
ブログランキング

意識改革とか啓蒙とか

 当サイトが主要な活動範囲としている中心市街地活性化・商店街活性化というジャンル、業界ではよく飛び交うコトバがいくつもありまして、中には“誰も反対できないがよく考えてみるとなのこっちゃ”という「黄門さんの印籠」的文言も少なくありません。

 その一つが「意識改革」ですね。
活性化話が煮詰まった段階でよく出てくるコトバの一つです。
「活性化が進まないのは、結局、意識が遅れているから」であり、活性化を実現するためには、「やっぱ意識を改革しないと」とか「意識改革が先決だ」というように話が進むわけです。

 面白いことが二つありまして、
一つは、「意識改革」が必要なのは、言い出した当人を除く「誰か」である、さらにいえば、その発言が行われた場に出席している人を除く「誰か」である。
「そうだよね」ということで、この発言に対する異論・反論は一切無い、ということに決まっています。

 もう一つは、「必要だ」ということを確認するところで論議が打ち切りになること。
普通なら「必要だ」と認識されれば次は「意識改革をどう実現するか」という段階に議論が進むべきところ、絶対に話がそっちに進まない。必要性を確認したところでこの話はお終い、次の機会にはまた一から確認まで、というのが「意識改革」論議の通り相場です。

 と考えてきますと、まず第一に「意識改革」が必要なのは、そういう問題のとらえ方・発想に明け暮れており・かつ・その非生産性に気が付かない当該会議にご参加の皆さん方ではないでしょうか(笑。
どう「改革」するんですか?
というか、問題の立て方に問題がある(笑

 「意識改革」という発想のウラには「啓蒙」というコトバが見え隠れしておりまして、わが国において「啓蒙」とは明治以来、「進んでいるものが遅れているものを指導する」ことを意味しています。戦後、この役割を一手に引き受けてきたつもりなのが、「進歩的知識人」の皆さんですが、もちろん、「啓蒙」に勤しんで来たのはこの人たちばかりではありません。
「ものごとをかくあらしめているのは、関係者の意識が遅れているからだ」と決めつけ、「意識の改革」こそ問題解決の決めてである、と考え、関係者の意識を改革しようとする人たちは、保守・革新を問わず、すべて「啓蒙」を実践しているわけです。
 
 「啓蒙」といえば、わが国では“進んでいるものが遅れたものを導く”あるいは“正しいものが間違っているものを矯正する”ということになっています。
これは本来の啓蒙とはすると全く異なった方法です。
もともとの「啓蒙」とは、国王や教会からいただく「正しいものの見方・考え方」を基本に自分の生活を作っていくことから脱却して、「自分のことは自分で考える」ようにしようではないか、という提言でした。

 ヨーロッパで生まれた思想ですが、これまで「王権や教会」が示していた「ものの見方・考え方」に代わるものとして、「新しいものの見方・考え方」を提案するものではありませんでした。
それは自分で考えて作る、あるいは選択するものであり、これまでの「正統」を批判する方法として登場したのが啓蒙です。
従って、「啓蒙」は「王権や教会など既存の権威に代わる権威」であることを主張して登場したのではなく、「権威を批判的に検討する方法」として提唱されました。

 この「態度としての啓蒙」がわが国に輸入されたのは、明治初期ですが、“進んだ欧米に学ぶ”という国家的要請から、「制度としての啓蒙」すなわち“遅れている日本を進んでいる欧米に追いつかせる”ことが「啓蒙」となってしまった。
「態度」が「制度」になってしまった。

 以来、今日に至るまで、問題は常に「おくれている当事者」を如何に進ませるか、「意識の改革」が課題とされています。
「進んでいる」誰かさんが指導して少しでも「進んでいる位置」に近づける、というパターンが至る所に蔓延しています。

 問題がいろいろありまして、

□「進んでいる」と自覚している人は何を根拠に「進んでいる」と主張できるのか?

□彼らに近づくことが本当に「問題の解決」への接近を意味するのか?
などなど。

実はこういうアプローチの仕方そのものが解きにくい新しい問題の原因になっていたりするわけで、いやはや南友といったあたりについては、【理論創発】で考えようとしています。

 進歩派さんたちに比べれば、「意識改革が必要だ」とお考えの皆さんが「意識改革の方法」などを発明して実践されないのは、とりあえず結構なことですが、「これこそ正しい方法だ」という「方向と方法」が「進歩的立場」から提示されると、まっすぐそれを「啓蒙」することにならないとも限りません。

 「商業の活性化」は、“自力思考に基づく現状批判~仮説試行~評価の繰り返し”でしか実現出来ません。
この方法と「似非啓蒙」「意識改革」とは、全く異なるアプローチです。「意識改革の必要」は、ちょっと考えれば出来ない相談であることは明白、さっそく破棄して「自力思考」に舵を切られることをお奨めします。

いうまでもないことですが、「自力思考」とは“先入観を取り去って考える(出来るはずがない)”とか“人のいうことは聞かない(じゃどうすんのよ)”といったことを意味するわけではありませんよね。

ブログランキング
-
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
ご案内
こちらは、コンサルタント・ファーム、有限会社クオールエイドのホームページの別館です。 商店街・中心市街地活性化関係の業務を中心に展開しています。 ご利用法について。 当ブログには、当該部門について、他では入手困難な情報をたくさん提供しています。 「ブログ内検索」で抽出、ご利用ください。 各種掲示板、ホームページ過去記事などは左欄の目次からアクセスできます。 引き続きよろしくお願いいたします。
プロフィール

進化する売場研究会

  • Author:進化する売場研究会
  • 【キラリ輝く繁盛店づくり】
    お客に見える店づくり―見える化をテーマに【個店の繁盛】から【商店街活性化】、【中心市街地の商業集積としての再構築】まで一貫した取組を支援します。
ブログ内検索
アクセスカウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
月別アーカイブ