金融資本主義vsものづくり資本主義

 このところ、バーチャルな金融資本主義ではない、地に足の着いた・日本のお家芸である「ものづくり」こそ進むべき道だ、という論調が増えているようです。

 何をおっしゃるやら。
こういう人たちは、金融資本主義の恐ろしさをほんとうに理解しているとは言えないのではないか?

 金融資本主義の行動原則は“金儲けの出来そうなところにお金を持って現れる”ということですから、ものづくりが良さそうだ、となればそっちに雪崩を打って押し寄せます。株式を公開しているものづくり会社で業績の良いところ、ものづくりに励んだらアッと驚く成果が挙がった、というところにはお金が押し寄せます。
乗っ取られたくなかったら企業の市場価値=株価を防衛しなければならない。もちろん株価が上がればそれを目当てに新手のお金が押し寄せます。

 端的に言ってグローバル金融資本主義にものづくりで対抗することは出来ません。出来る、やろうと言っている人はないも分かっていない人か何か魂胆を持っている人ですね。

 グローバル経済の恐ろしさは、グローバルな秩序のない市場原理主義の恐ろしさですからね。
非経済的な秩序が前提されていない社会、有効なルールが「市場原理だけ」という社会を想像してみれば一目瞭然ですね。

 「保護貿易」という四文字を押し立てなければならない局面に入ったのではないかということでもありまして、振り返ってみれば貿易立国などという文言に踊らされて、自動車、エレクトロニクス輸出のためにどれだけ犠牲を払ってきたことか。
貿易は、まず国内産品優先、余ったものを輸出する足りないものを輸入するという国民国家の「原則」に立ち返るべき。
ついでに言えば「セイフティネット」などという市場原理主義におもねった用語は断固排撃すべき、憲法の精神にセイフティネットはありません。

 次期政権を狙う鳩山さんもセイフティネットではなく「友愛」だと言っています(笑

経済とは、経済学とは何か?

 『文芸春秋』七月号にジャーナリストの東谷暁さんが『エコノミスト早くに立つのか』という記事を書いています。ご承知のとおり、東谷さんは経済プロパーで幾冊もの著書のある腕利きのジャーナリストです。当サイトではその著書を何度か紹介しています。
いろいろと参考にさせてもらい、感謝している人ですが、今回はちょっと異なる視点から取り上げます。

 さて、上述の論文で著者は、マスメディアに登場するエコノミスト(経済学者・経済評論家)は、「世界同時不況」について何をどう論じているか、ということを論じています。同様の作業は、99年、01年にも行われており、文春新書でも出ており楽しませてもらいました。

 東谷さんがみずから述べているこの作業の趣旨は“サブプライムに端を発した世界同時不況についての経済論争を出来るだけ分かりやすく整理して読者に提供し、議論の混乱を少しでも低減したいと思うから”ということです。(同誌p191)

 この趣旨のもとに、メディアで活躍する著名エコノミスト25人をピックアップ、基準を設定して評価、順位付けをしています。これも前例と同じ。

 評価するのは次の四項目
1.米金融崩壊の予測
2.日本経済の浮沈予測
3.インフレ目標について
4.財政出動について
1、2については当たりはずれ、3,4については主張・説明の合論理性を評価します。
評価は、
+2:まず納得できる
+1:まあまあ納得できる
0 :あたらずとも遠からず
-1:やや納得できない
-2:まったく納得できない
の5段階で行い、その結果をもって25人を順位付けしています。いつものパターンです。ちなみに、第一位は菊池英弘博(日本金融財政研究所長)の平均+1.29、最下位は 3名同順で-1.25です。誰がどう評価されているか興味のある人は同誌の一覧表をば。

 記事を読んでtakeoが感じたこと。
1.金融危機の発生を適切に見通していたか?
 これは、いつ頃、どのような根拠で予測したか、ということがポイントですね。
バブルはいつかは弾けるわけですし、“バブルは弾けてはじめてそれと分かる”という人もいます。著者も記事の最後で“たまたま当たった”とコメントしており、さてさて。
2.日本経済の浮沈を見通していたか?
 ということについては、、日本はサブプライムをあまり購入していないので“ほとんど無傷”という意見が多かったが、あにはからんや、株価の急速な下落で端的に反証されたわけですが、読み違いの弁解として、“経済学者を名乗っている竹中氏が”“〈構造改革が止まり、企業や国民の期待成長率が下がったから>と述べて〈今の問題をアメリカだけのせいにしてはいけない〉などとうそぶいているのは呆れざるを得ない”と一刀両断、“とはいえ、こうした日本経済急落の原因を何に求めるかで、それぞれの論者たちの経済観と政治的立場が露わになったことは、興味深い現象だった”と述べています。
後ほど取り上げますがここは大変重要なところです。

記事のまとめでは、
“エコノミストたちの議論に絶対などというものはない。次々に変節する人もいれば終始一貫して主張したことがたまたま当たる人もいる。その微妙な違いを読みとっていただければさいわいである”と述べ、
“この格付けが、現在の経済危機と真剣に対決している読者にとって、様々な議論に謙虚に向き合い、自らの処方箋を見つけ出す一助となればそれ以上の喜びはない”と結ばれています。

 これはおかしいのではないか?
“次々に変節する人”や“一貫して主張したことがたまたま当たる人”たちの“その微妙な違いを読み取”ることが、どうして「現在の経済危機と真剣に対決している読者」の「様々な議論に向き合い、自らの処方箋を見つけ出す一助」になるのか?
訳が分かりません。

 著者自ら「ころころ変わる」「たまたま当たった」と評価するような言説に、処方箋を自ら見つけ出さなければならない「読者」は、なぜ「謙虚に向き合」わなければいけないのか?

 もともと、対象とする言説が「一助」になるか否かということを判断するためには、論者が自ら持っている経済観を基準にきっちり展開してもらわないことには話になりません。一時的な当たり外れだけなら、「占い」でも「あみだくじ」でも出来ますが、「当たり」が「今後の予測 の正確さを約束するものではありません。「ころころ変わる」「たまたま当たった」というのはそういう類とどこが違うのか。専門的な装いを凝らしている分、罪は重大です。

 東谷さんが、ホンキで「読者」の「真剣な対決の一助」となることをめざすならば、こういうレベルの言説の順位付けなどをするのではなく、「真剣に対決しようとしている」人に対して自らの経済観、装備している経済学的体系を明らかにする、適切なそれが準備できていなければその構築に赴くことが、真っ当な姿勢ではないでしょうか。
少なくともホンキで「真剣な対決の一助」をめざすならそうあるべきだと思いますが。

 マスコミ人士は、ご自分の頭の良さを頼りに、注文されたテーマについてデータを集め、読み込み、PUT OUT することが得意ですが、今どき「真剣な対決への一助」たらんことを望むまれるならば、それはもはやジャーナリスト的ポジションでは果たせない望みであるということになるのではないか。

 ということで、現下の経済状況に真剣に対応しようとしている人、せざるを得ない人にとって、エコノミスト、ジャーナリストの言説が意味するところを明らかにしてみました。

 経済において実務に当たっている人にとって必要なことは、自分の日々の仕事、将来のあるべき姿を描き、それを実現する方向と方法について「処方箋」を確立することですが、エコノミスト、ジャーナリストの言説にそれを期待することは出来ない、われわれは微力をいとわず、自ら処方箋を確保しなければならない状況にあるのだ、ということを覚悟市、必要な作業に着手することだと思いますが如何でしょうか。
 
 雑誌を読んでいて思いついたことを書き連ねてみました。中心市街地活性化、地域経済活性化などに真剣に対決し処方箋を得たい人たちの指針となるべき「中心市街地活性化の経済学」「地域活性化の経済学」はまったく存在しません。
ご承知のとおり、中心市街地活性化についての言説は、「ころころ変わる」ものや「なんの根拠も無い経験則」の類が殆どですから、順位付けされている人たちを笑うわけにはいきません。

 記事を踏まえてわれわれはどうすべきか、という問題をあらためて確認しなければならない。 

 ということで、処方箋を真剣に探している人の一助になればさいわいです。

新自由主義は拝金主義

 先年、“金で買えないものはない”と豪語したのは堀江某氏でした。かねさえあれば何でも出来るということで、つまり、金があれば人は様々の制約から自由になれる、ということを意味します。

 お金について考えるにあたっては、このことが決定的に重要です。
“お金があれば自由になれる”ということから、自由になりたかったらまずお金をなんとかしろ”ということになり、さらに“お金を持っていることが自由の証”諸々の制約から自由になっていることの証ということで、「お金持ち=成功した人」という図式の後ろには、“成功=制約からの解放”という暗黙のうちに共有している価値観がある。

制約とは何か?
そのもっとも根本的なものは、環境との関係です。
人は環境との交渉(働きかけ、所要の成果を得る作業)を続けない限り、まずその生存を維持することが出来ませんが、環境との交渉にあたっては、交渉を成功させるために必要な条件を守らなければならず、それは自由に対する「制約」そのものです。
今、自分が何をしたがっているか、ということに優先して「環境との交渉」を成功させなければならない。早い話、生存を維持するための条件を整えなければならない。

 ところが。
お金があれば、こういう「制約」はほとんどありません。“お金さえあれば出来ないことはない”わけです。もちろん制約からの自由だけではなく、やりたいことを実現する自由も手に入ります。
お金は「自由」の担保であり象徴です。

 ということで。
いわゆる「貨幣愛」とは、「様々の制約条件から自由でありたい」、「自分がしたいことを成し遂げたい」というほとんどの人が共有しているであろう願望を実現するもっとも効果・効率的と思われる「手段」への執着が転じて「愛」となったもの、と考えられます。
経済学では「貨幣論」というジャンルがあり、「貨幣とは何か」ということで様々にアプローチされているようですが、その多くは貨幣の機能や賞品としての特性の分析に止まっており、人の欲求の対象としての貨幣に迫る論考は、管見の限り、余り無いようです。

 人が貨幣を愛するのは、それが自由を約束してくれるからであり、自由の象徴であり、そこから転じて貨幣が「何ものにも代えられない最高の価値」となるのは当然のことです。
あれやこれやの特定の自由ではなく、無制限の自由を約束するのがお金だとすれば、それはあれやこれやとは取り替えられない究極の価値、と見なされます。
すっかりその気になっているのが新自由主義者の皆さん。
彼らの根本動機は、“もっと、もっともっとお金が欲しい”ですね。
主義者にとって行動規範は“もっとお金を”ということですから、理念も理論もお金の前には沈黙します。

 ちなみにマネタリストは理論を道具と見なしますが、もちろんこれは“金儲けの道具”ということで、理論よりも金儲けが優先しますから、金儲けが上手く行かなくなりそうになったら、平気で理念・理論をねじ曲げ、規制やら脱法やら何でもござれ。
フリードマンがチリの軍事政権と組んで自説を実施して失敗したことは有名ですが、「自由主義」は軽々と「軍事政権」と密着します。

 ぼけっとしていると、“ダメな経済学者の理論に盲従することになる」と警告しているのはケインズ先生ですが、没理論のテクノクラートを自認する高橋洋一氏が、竹中氏のブレーン時代、命ぜられて郵政民営化のスキームを構想するにあたって、「主義に関係なく」“これは使える”と下敷きにしたのがフードマンの『資本主義と自由』でした。民営化推進の道具として主義抜きで使ったわけですが、結局、新自由主義・拝金主義に絡め取られ、今日見られとおりの情景となりました。

 理論は主義に密接に関係していますから、主義抜きで理論を利用するというのは、「盲従」になることがあり、“こんなはずではなかった”と嘆くことにもなりかねません。
自分の行動は、誰の理論(提案)に基づいているのか、その理論の根拠はどこにあるのか、ということは節目節目を超える前に是非とも吟味しなければならないようですね。

 タイトルについては、ほんの思いつきですが、ズバリ、本丸をついていると思いますが、如何でしょうか。
興味のある人は一緒に吟味しましょう。【理論創発】です。

脱成長経済時代の構想力

 “今日の日本の経済の最大の問題は、グローバルなスタンダードに合わせて競争力を如何に回復するかという点にあるのではなく、いずれに低成長、人口減少、高齢化、消費意欲の減退を甘受せざるを得ないという条件のもとで、いかなる形で「生の確かさ」、生活の確実な基盤を構想し、そこへ向けてどのような経済的な条件を整えていくか、という点にこそ求められるべきであろう。
 グローバリズムにいかなる形で対応し、あるいはいかなる形で距離をとるか、日本型経済をどうするかという問題は、あくまでそれと連動した事柄なのである。
 だからたとえば規制緩和、自由な競争市場が全面的に正しいという議論はほとんど意味を持たない。規制緩和が必要な領域もあればむしろ規制強化、強力な行政権限が必要な領域もあるということであろう。それを見極めることは、この低成長経済の中での社会生活の構想、国家についてのビジョンをある程度もっておかねばならないのである。”
(佐伯啓思『ケインズの予言(PHP新書1999年)』P206)

 “百年に一度の暴風雨”をバブルの崩壊によるものと見るのは今日多くの人に一致していますが、ではバブルはなぜ崩壊したのか、イヤ、そもそもバブルはなぜ発生したのか、ということを突き詰めると、起きているのは暴風雨ではなく地核変動ではないか。
 というか、単に質の悪い不景気が続いているのだとか、そうではなくて百年に一度という規模の不況だとか、見方はいろいろ出来ますが、引用したような条件のもとで地域経営を構想していくにあたっては、当ブログが日頃主張しているように日本の経済社会は「地核変動」のさなかにあり、われわれが的確に対応することを迫られているのは、この「地核変動」期を新しい地平に向けて如何に上手に乗り切っていくか、という視点が不可欠です。

 当ブログではめざすべき方向を「時間堪能型社会」と定義していますが、特に「中心市街地活性化法」のスキームを活用して中心市街地~都市全域の活性化に取り組もうとする人口20万規模程度以下の多くの都市にとって、都市経営の全方位的な努力の一体的な推進によって取り組む課題を「時間堪能型社会への対応の推進」とすることは、疲弊する都市経済、混迷する都市経営を再構築する唯一の方向ではないかと考えられます。

 ご承知のとおり、当サイトのキャッチフレーズは、“中心市街地活性化の成否は自立的都市経営の試金石”ということです。
都市経営がめざすべき方向をどう定めるかということは、当面,都市経営上の最重要なテーマです。
テーマの設定を間違うと解決不能なコンフリクトが多面・多重的に発生し、経営不能に落ちって行くというのがこの規模の都市の見やすい将来ではないでしょうか。
 
 中心市街地・商店街活性化のテーマを「ラグジュアリィ・ニーズに対応するショッピングゾーンの構築」と掲げることは、広域商圏において将来にわたって事業機会を確保するという目的を達成するためですが、それは同時に都市が総力を挙げて対応しなければならない「時間堪能型社会への移行」という課題への試行という側面を持っています。

 一般に都市再生の取り組みの中核を担うのは地域中小企業者であり、もちろん、その有力なグループの一つが「中心市街地活性化法」のスキームを活用しながら個店・商店街・中心市街地の活性化に取り組む中心商店街・独立自営商業者です。

 というように考えますと、現在の中心市街地活性化の取り組みに欠けているのは、「転換期」という時代の性格を見据え、地核変動期・脱成長経済時代の生活はどこをめざすべきか、どこをめざそうとしているか、その兆候はどこに現れているかということを見極め、対応の方向と方法を構想する、というもっとも基本的なことです。

 わが商人塾では早くからこの方向と方法を提唱し、共鳴する皆さんと実践しているところです。さいわい、このような時期においても塾生の皆さんの業績は好調のようです。
中心市街地活性化、今必要なのはあれこれの施策に取り組むことではなく、その基盤となる中心市街地が進むべき方向と方法を定めることであり、その延長上にはもちろん、都市自体が新しい時代における安定・安心・安全を確保していく方向と方法を構想する、という課題への大きな貢献があると思います。


※冒頭で引用した佐伯さんの本は以前も紹介したところですが“幻想のグローバル資本主義”というテーマで書かれた新書二冊セットの下巻です。上巻『アダムスミスの誤算』と合わせてご一読をお奨めします。 

アダム・スミスを疑う

(承前)

 まるで“経済のために人間が存在する”かのような言動が日々報じられていますが、この情況から離陸、「人間のための経済」を構築していく、という課題があるわけです。
まあ、そんなものはない、という人もあるでしょうが。

 アダム・スミスは、利己心のせめぎ合い(が市場)は均衡に至ると主張したそうですが、近代経済学の根幹である「価格理論」には周知のとおり「時間」がありません。
供給=販売希望価格と需要=購入希望価格は、市場に相まみえたとたん、瞬時に均衡価格に到達することになっています。
つまり供給者も需要者も市場に登場すると同時に、均衡価格に到達するために必要な情報及び計算を瞬時に行うわけですね。

 こういう妄想が実際の経済のモデルとして通用するわけがないのですが、まあ、当時の「潜在需要」は供給能力に比較すれば無限に思えたことでしょうから、ムリもないといえばそのとおりです。
ただし、「利己心」についての疑問は今も昔も不変であり、例えば「自己実現」という課題を追求したいという欲求が必ず「物財の所有」を指向するとは言えないわけで、「物財の必要」と「物財への欲求」には差違がある。

 直面する大不況に「機会」を見るとすれば、その第一は「近代経済学(アダム・スミスを鼻祖とする)」を見直す絶好の契機であるということ。
欲求の「無限」が物財的必要の無限とイクオールではない、ということは明らかでありまして、早い話、「時間堪能」に“物財を所有しておくこと”は必須条件ではない。

 物財、利益を追求する利己心が見えざる手によって均衡する、というおとぎ話はもうおしまい。
「人間のための経済」を構築する実践がそこここで始まっているわけですが、「見えざる手」などというデタラメ経済学がまかり通っているうちは、本格的な再起は不可能かも知れません。
ということで、アダム・スミスに戻って考え直す、ということになると問題は百年どころか「二百年問題」です(笑 

環境の変化は必ずプラスに出来る

 建築基準法の改正以降、建築業界は大変な状況だと聞きますが、これを千載一遇のチャンスととらえ、しっかり受注を伸ばしている住宅建築会社があります。

 手続き変更に機敏に対応、「二週間でクリアする」ということと、いまどきの施主の琴線に触れる提案・施行をセットにしているとか。
考えてみれば当たり前のことですが、一般に施主の住まいに対する期待と「古民家再生」というような流れとはまったく無縁だそうで、思い出せば、当社が一昨年手伝った賃貸マンションの企画でも、“和室はインテリア”というノリでした。
全体は洋風で、和室は一間だけ、つまり、和室は丸ごとインテリアという見立てです。四畳半がインテリアというわけで有田焼や大川の家具など地元産地の商品群が「インテリア部材」として採用されました。

 大きな環境変化、既存業界が対応に苦しむような変化の場合、機敏・的確に対応した企業に顧客が集中することになります。
変化は、どんな類のものであれ、つねに、必ず、プラスにすることが出来る、と考えて知恵を出すことが必要ではないでしょうか。
危機だ、と考えるのと、プラスにするぞ、と構えるのとでは結果が大きく異なります。
もちろん、これは個別企業レベルの「方向と方法」の話です。
 ただし、従来的経緯のなかで恒常業務に邁進していると、見るべきところが見えなくなっているかも知れません。

「恒常業務は戦略業務を駆逐する」
くれぐれもご留意あれ。

  こういう時期こそトップは、恒常的業務から身も心も切り離し、企業・市場・社会の行く末を凝視しなければならないわけですが、分かってはいても実際には困難な人もあります。
当社では遊びがてらのご来訪をおすすめしていますが・・・。

目指せ! 一億総中流

目下、サイトの【理論創発】で書き継いでいる記事です。

 高度成長期が達成した成果を当時とは様変わりした状況において異なる定義のもとに再構築する。
これこそが中心市街地活性化の目的であり、地方・日本国全体再生のシナリオです。

 最近は勉強会でも話しますし、メールのやり取りでも頻用されています。
「なんだかな」と思いつつのキャッチコピーでしたが、使ってみると状況にぴったり、分かりやすくて、便利、方向と方法の説明がラクになります。

「中流」とは「明日~将来に不安が無い生活」と考えてください。
「不安がない」と言うことは、「自分の好みで今日が楽しめる」ということにつながります。「今日が楽しめる」ことが「明日~将来に不安がない生活」・経済社会を実現する条件でもあるわけで、卵が先か鶏が先か、なかなか悩ましいところであり、既成の経済学では日本経済の中・長期的な成長のシナリオが書けないのはこのあたりに原因があるのです。

 一億総中流への道、どのようなシナリオがあるかといいますと、「ラグジュアリィは日本を救う」わけでありまして、日頃の生活において「ラグジュアリィ」を意識的に追求すれば、
①生活が楽しくなり
②将来が明るくなる
という、取り組みやすく・実現しやすい、画期的な「道」であります。

ラグジュアリィモールとしての再構築は、
①商品は国内産地・メーカーが制作する
②地元小売業が販売する
③チャネル全体を通じて正規雇用体制
という条件の実現を意識的に追求します。

 ご承知のように、中心市街地・商業の活性化=ラグジュアリィモールとして再構築していく上での大きな問題の一つは、「ラグジュアリィ」を堪能するために必要な情報・材料の提案・提供が著しく劣化している、ということです。
お店に売られている商品といえば、海外商品ばかり、スーパーブランドか廉価品かの二者択一、と選択肢が強制されておりまして、まあ、どちらを選んでもラグジュアリィにはほど遠い。

 一方、この芸も能もない二者択一への収斂の結果、ブランドでも廉価でもない国産のラグジュアリィ最適商品群は、流通経路を失い、今や瀕死の状態にあるといって過言ではありません。
(もちろん、例外的・模範的事例はあります:今治タオル

 国内消費財産地の流通チャネルのエンドは「中心商店街」ですが、ここが軒並み空洞化している現在、国内消費財業界がこぞって長期低迷の極にあることは当然といえば当然のこと、中心市街地活性化とは、国内消費財産業活性化と同義です。

 で、メーカーと小売、どちらが先かということになるわけですが、これはもう、もっとも消費・生活に接近所在する小売業が先陣を切ることになることが必要です。
「出来ることから少しづつ」という業容転換の方法からも。
課題である「業容の革新」について「ラグジュアリィニーズへの対応」を目標方向として、漸進的・仮説~試行法を持って取り組んでいくことになります。
プロセスで重要なのが「品揃え」の革新であり、供給先の発見・確保という仕事。
何年ぶりの新規取引先開拓、というところもありますし、吟味にかなう取引先が右から左に現れることは期待薄です。

 理想的なのは、川上各段階で「ラグジュアリィ志向」のビジネス革新が同時多発することですが、上記のとおり、規模的にいえば小売段階がある程度まとまらないと新規の企画はスタートしにくい、というのが実状でしょう。

 そこで「中心市街地の華・百貨店」の登場です。
百貨店業界の未来もこのままではじり貧の一途、明るい明日を築くためには新しい「活性化の方向と方法」を定めることが不可欠という状況にあります。
百貨店が「ラグジュアリィに針路をとれ」ば、急転直下、話は一挙に進みます。
百貨店がその気になれば大手消費財メーカー、流通段階もその気になりやすい。その気にならないと明日がない、ということでは一蓮托生ですからね。

 このあたりの一連が動き出せば、中心市街地活性化の動き、方向とスピードが一挙に変わります。
「目指せ! 一億総中流」も「風呂敷」レベルから離陸することになります。
ということで、当社、今週はあれこれ、ちょこまかと動くことになります。
 経営革新やら勉強会やらが立て込み、事務所にも人の出入りが多くなっているなかでの動きですが、収穫があったらさっそく報告します。お楽しみに。
皆さんも参考になるようなことがあったら、教えてください。

「ラグジュアリィ」について

ラグジュアリィとは何か?

 当社は、ときどき、商業やマーケティングの領域ではあまり使われていない言葉を用いたり、ごくまれには、「こんな日本語あったっけ」といわれそうな言葉を〈発明〉したりしています。これはけして奇をてらっているものではありませんで、
まあ、時代社会が大きく変わる時には、これまでの言葉だけでは表現できない、無理にこれまでの語彙で表現すると、混乱してしまいかねない、ということも無きにしも非ず、いうことで、もちろん、当サイトで使っている新語がそうだというのはおこがましいことのような気もしますが、その分、きっちり定義して使いますのでおつきあいください。

 ということで、今日取りあげるのは「ラグジュアリィ」という言葉です。
英語の luxry 。英和辞書を引きますと、豪華、贅沢、快適といった訳語が宛てられています。けして間違いというわけではありませんが、豪華、贅沢、快適等々は、相対的なことでありまして、では具体的になにがラグジュアリィなのか、ということは時代や個人によって違います。ある時代、ある人にとってはラグジュアリィと感じられることが、別の時代、他の人にとっては luxury でも何でもない、ということは大いにあり得ることですね。

 すでに多くの人がご承知のとおり、当社ではこの言葉を「ある傾向の生活・消費・ショッピング」を表す言葉として使っています。luxryをそういう用途で使っている例は、当社以外にはほとんど無いと思いますが、現代の生活・消費・ショッピングではラグジュアリィ的な「生活・消費・ショッピング」が重要な位置を占めています。
 このことを理解しないと「生活・消費・ショッピング」を合理的に説明することは出来ません。

 特に、地方都市において、空洞化が著しく“あってもなくてもかまわない”ポジションに陥ってしまっている中心市街地の商店街群の「集積としての活性化」を目指す場合、ラグジュアリィ的「生活・消費・ショッピング」の存在を理解していることは決定的に重要です。
ラグジュアリィを抜きに当該商圏において中心市街地の商業集積が新たに構築を目指すべき商業機能としての方向と方法を定めることは大変難しい。

今日、多くの都市の『中心市街地活性化基本計画』が、“商業活性化の方向と方法”を明確に定めることが出来ないでいるのは、まさにこのことが原因しているといって過言ではないと思います。
クオールエイドは、中心市街地活性化が政策課題として登場して以来、“中心市街地・商業街区の活性化は、「ラグジュアリィ」をターゲットにすることでのみ達成される”中心市街地に再構築すべきショッピングモールとは、「ラグジュアリィ・ニーズ」を対象とする業容であるべきだ、と提唱してきました。

 ラグジュアリィとは何か? 
中心市街地活性化の取り組みがスタートして以来8年、各地の取り組みが所期の成果を挙げられない中で、新スキームが提案されたわけですが、スキームはあくまでもスキーム、これを活用して活性化を実現する事業ミックスを構築するのは、当事者である各都市です。この課題は、中心市街地にはどのような事業機会 ―都市機能の増進と経済活力の向上を「総合的、一体的に実現」する方向と方法― を発見することからスタートします。もちろん、中心市街地にとって事業機会を確保することは、とりもなおさず、当該としにおけるその存在価値を再構築することです。

 中心市街地が実現を目指すべき、中心市街地ならではの存在価値とは何か?
ラグジュアリィは、このことを解明し、実現するための選択肢の一つ、たぶん、現在理論的にていきされているものとしては唯一の選択肢だと思います。
 中心市街地の活性化を考えるに当たっては、今現在提起されている唯一の選択肢であるラグジュアリィを理解する作業をサボることは許されません。もっともラグジュアリィについて見聞する機会を得られない人にはどうしようも無いことですが・・・。

 ラグジュアリィとはなにか?
もう一度、しっかり考えてみたいと思います。
結構な作業量になりますので、続きは【理論創発】コーナーで取り組みます。
よろしくおつきあいください。

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有限会社 クオールエイド

  • Author:有限会社 クオールエイド
  • 【キラリ輝く繁盛店づくり】
    お客に見える店づくり―見える化をテーマに【個店の繁盛】から【商店街活性化】、【中心市街地の商業集積としての再構築】まで一貫した取組を支援します。
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