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レトリックについて

■ ブロガーの文体

 ブログを読んでいて面白いことの一つに、特定のブログが使うレトリックがいつの間にか他のブログに伝染している、ということがあります。
扱っている記事・論調についての影響、波及はTBもあり、当然ですが、それとは別にブロガー個人のレトリック、常套用語などが他のブログに伝搬するのが見かけられることがあります。それによって時には“アリエナイザー”(w とも思われるブロガー間の交流が推測されたりすることも。

 文体で影響を及ぼすにはもちろん、内容もさることながら(これがダメなら固定購読が成立しないですもん)、ブラインドで一段落読んだ人が「あ、例のブログだ」と判別できるくらい、特徴的かつ当の真似っこに「真似てみよっかな」と思わせるような文体を装備していることが条件。
ま、当たり前ですが。

 一時は(今でもかな)「きっこのブログ」などがそうでしたね。~今日この頃~とか。・・・そんなわけで、とか、クルリンパとか。
そうそう“アリエナイザー”も(笑。
アンチきっこを標榜するブロガーまで真似しています。

 レトリックを模倣するということは、ブログに掲載されている言説への賛否を越えて、あなたのブログに一目置いてるよ、ということの意識的・無意識的表明かも知れません。
時には他の魂胆もあったりして(笑。
「レトリックへの共感」と言うことでしょうか、おもしろいですね。 今から流行りそうなのは潜水艦乗りさんのレトリック。
いやもうすでに普及していますか(笑。

 だけどね、とか、~わけで、~わけで、とどんどんつないでいく粘着?ためぐちレトリック。話すことならいくらでもあるんだが、という人にもってこいの文体です。
きっこさん由来もありそうな。

 ブログの登場は、ブログ的レトリックの登場でもあるようで、言文一致体が発明されて以来の新しい成果が創発されるかも、などと期待している今日この頃です。
ブログの文体は、これからも観察していきたい。

 ブログ界から言文一致体以来の新しい文体が創発される、という可能性も否定できません。楽しみだなぁ、といっておきましょう。

 話はここでクルリンパと、レトリックについて。
辞書では「相手を説得する技術」とか、「伝えたいことの表現法」などと説明されています。「話したり、書いたりする際に言葉を有効に用いる技術」などとも。

 これらを手がかりにあらためて考えてみると、とてもそういうレベルのことではない、「ものの見方・考え方」と直接関係している重要なことであることに思い至るのでありまして、「問題解決能力のブラシアップへの貢献」を目的の一つとする当サイト、引き続きレトリックについて考えてみようかな、などと考えてみたりしている、今日この頃です。


■レトリックについて

 (サイトでは別記事)

 まず簡単に、レトリックとは「相手を説得する技術」であると考えます。
“どうすれば相手を説得できるか、いろいろと説得する方法、表現を工夫すること、また、その技術を研究すること。”レトリックとはそういう意味。

 次に、レトリックを用いて話し合う相手、すなわち「議論し、説得する相手」が「自分自身」の場合を考えてみましょう。

 我々が生きていくにあたっては“ある未知のことについて理解する”という作業が常に付きまとっています。この「理解する」という作業は、当の「未知のこと」について“自分自身を納得させる”ことだと考えることができます。
“自分自身を納得させる”ということは、「未知のこと」について“自分が納得できる説明を組み立てる”であり、つまり、レトリックを駆使する、ということです。 
ここからレトリックの重要な特性が導かれます。

 この場合、何しろ説得する相手が自分自身ですから、「だます」わけにはいきません。だまされた結果、「未知のこと」について誤った理解をしてしまい、その誤解をもとに「未知のこと」に対処すれば、失敗を招く可能性が高くなります。
みずからの仕事で失敗を招くわけにはいきませんから、この場合、レトリックは、“いかに対象を適切に説明するか”ということが課題になります。この「的確な説明」のために駆使されるのがレトリックです。

 私たちが「未知のもの」を言葉を用いて理解するとき、そこには必ずレトリックが働いています。「対象を理解する」とは“対象を言葉を使って構成する”ことです。
“それはただのレトリックじゃないか”などという常套句がありますが、レトリックの正体を知ると、とてもそういうセリフは使えなくなります。

 たとえば、“ライリーの法則”は、重力の法則を比喩的に用いて購買行動を理解ー予測しようとする試みですが、この場合、重力の法則がレトリックに使われています。
重力の法則の「正しさ」をもって「ライリーの法則」の妥当性を担保させようというレトリック、ということが指摘されます。
このことが意味することは重大でありまして、この欄で説明するのもなんですが、簡単に書きますと、重力の法則と同じ構造の説明になっているからといって、そのことをもってライリーの「法則」が重力の法則と同じ資格(この場合科学的知識)をもっていることが帰結するわけではない、ということがあります。
上手に説明出来たからといって、それが正しいとは限らない、ということ。

 話がちょっと先走っていますが。
今日の話題は、レトリックとは単に「人を説得する弁論術」ではなく、「(自分を含む)人を納得させるにあたっての言葉の使い方」のことです。
レトリックの正体、その重要性を理解すると、レトリックをしっかり身につけることの大切さが身にしみます。

 もちろん、いかに相手をこちらの土俵に登らせるか、という問題意識のもとに操られるレトリックもありまして、たとえば、中心市街地活性化の議論ではよく「商業の活性化だけではなく」というレトリックが登場しますが、このとき発言者の念頭にあるのは往々にして「商業の活性化以外のこと」であることが多いようです。「○○だけではなく」が言外では「○○以外」となり、これを黙認すると話は「○○以外」の施策に終始することになってしまうwさけですね。時には自覚しないまま「だけではなく」と切り出したために、「商業以外の話」に終始することになってしまう、ということもありそうです。こういう進展にピピッと来るのがレトリックセンス。

 「レトリックは(彼我を問わず)ものごとを理解させるための技術だ」「理解をめぐる議論の技術だ」と考えれば、レトリックに習熟することの大切さがしみじみと理解されますね。
言葉を用いて対象を理解する=対象を言葉で構成するということは、レトリックを駆使して納得させなければならない最初の人間は他ならぬ自分自身だ、ということを意味します。

 レトリックを駆使する能力はものごとを理解する能力につながる、「問題解決」を左右する大切な能力ですが、修得する方法は確立されておらず、「自然成長」以外は「現場百回」とか「書写」とかの領域にとどまっているようです。
レトリック、課題である「自力思考」に大きく関わることであり、その錬磨には常日頃十分留意しなければならない。
なんだか、当たり前の結論ですが、いいたかったのは「レトリックはものごとを理解するための武器である」ということ。
ほら、よく使われる「コンセプト」も「対象の言葉による構成」ですから、レトリックは不可欠です。

 磨くべし、レトリックのセンス&スキル。
特にプランニングを生業とする人にとって、レトリックスキルの錬磨は欠かせません。まずはそのことの確認から。


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教育改革の改革を

教育改革の改革を

 雑誌『世界』6月号は、「教育改革」を特集しており、その中に次のような提言がありました。

『教育改革の改革を』 ―教育再生会議への七つの疑問―
提言者:マネジメントの観点からの教育再生研究会

 同会は、自民党所属の衆議院議員有志が“印象批評や感情論を排し、建設的で現実的な改革を提案したい・客観的データや先行研究を踏まえた合理的な教育政策を提言する”ということを目的に立ち上げたもの。
メンバーは、河野太郎 後藤田正純 上野賢一郎 篠田陽介 橋本岳 山内康一の各氏です。

提言は、“教育改革の議論はどうも噛み合わないものが多い”といい、その例に教育再生会議の第一次報告書(2007年1月)を取りあげ、“報告書にはすぐにでも実行して欲しいようなすぐれた提言もある一方で、議論の進め方に違和感を覚えるところもある。議論の進め方についての七つの疑問をあげるとともに、より建設的な議論を進めるための提案を行いたい”という趣旨で書かれています。

 論文の中心になっている「七つの疑問」を〈広範な関係者によって取り組まれる社会的問題へのアプローチへの疑問〉というように一般化した上で、「中心市街地活性化という社会的問題へのアプローチ」に当てはめてみますと、これがまあ、びっくりするほどよく似ています。論文が教育論議の現場で起きていると指摘されていることと、われわれが日頃中心市街地活性化の議論の現場で観察すること・感じることと共通するところが多い。よって来るところの原因が一緒かどうかはまた別に考えなければなりませんが、少なくとも現象としては大変似通っています。

 教育再生論議への疑問提起という本論の趣旨については、当サイトの守備範囲を超えていますが、提言が指摘している「七つの疑問」は、「教育」のみならず〈広範な関係者によって取り組まれる社会的問題へのアプローチ〉に共通して現れることがあるのではないか、特に当サイトの正面である「中心市街地活性化をめぐる議論・取り組み」においてよくみられる現象には指摘されていることがよく該当するのではないか、と考えさせられました。

 提言は、「教育改革の改革」からスタートすべき、といっておりますが、中心市街地活性化にも「取り組みの改革」が必要ではないか、と強く示唆されました。全文を紹介したいところですが、「七つの疑問」の項目だけ紹介します。

第一の疑問 委員の人選と事務局の動き方
※委員の人選は文化人、有識者、教育現場の専門家中心で、教育を専門に研究して来た人は含まれていない。専門家の意見をあまりにも軽視されていることが、議論に深みが欠ける要因となっている。

第二の疑問 前提となる問題意識のあいまいさ
※前提条件、あるいは前提となる問題意識があいまいで議論に深みがない。

第三の疑問 原因追及の軽視
※「学力低下」を前提に議論を進めているが、“なぜ低下したのか”という原因追及は行われていない。

第四の疑問 具体性に欠ける目標設定
※具体性を欠く、誰も反対できないような抽象的で美しいスローガンを掲げてもそれだけでは政策目標としては不十分である。

第五の疑問 方向性のあいまいさ
※方向性のあいまいさ、基本方針の矛盾もみられる。

第六の疑問 実証のない論理の飛躍
※因果関係が分からない、論理の飛躍と思えるような唐突な提言も多い。

第七の疑問 教育に対する過剰な期待
※教育再生会議の議論は、「教育ですべての問題を解決できる」という幻想に支配されていないだろうか。

 指摘されているような「疑問」が〈広範な関係者によって取り組まれる社会的問題へのアプローチ〉にしばしば起こるとすれば、「問題への取り組み方が新しい問題の原因となる」わけで、アプローチを改革することが必要になります。
 「七つの疑問」は、先にも書きましたが、文言を変えれば「中心市街地活性化」への取り組みにも共通するものが多く、“「教育改革の改革」が必要である”という結論なら、共通した状況にある中心市街地活性化の取り組みについても「活性化の改革」が必要かも知れません。

 本文は次のところにアップしてあります。
是非ともご一読、「我が身」に置き換えてみられることをお奨めするものです。

衆議院議員 山内康一 オフィシャルサイト 
教育改革の改革を―教育再生会議への7つの疑問」 

 ちなみに「中心市街地活性化への取り組み」において、〈広範な関係者によって取り組まれる社会的問題へのアプローチ〉が画期的に改善されると、それは都市経営の広範な各方面に応用され、成果を挙げることでしょう。
「三号要件」クリアのもっとも重要な課題です。

 ということで、クオールエイドではこのレトリックを全面的に採用して「中心市街地活性化の活性化」の喫緊の課題について、特に「中心市街地活性化協議会」や「TMO」、「TMO体制」のあり方を中心に考えてみたいと思います。

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持続可能な地域社会

 サスティナブルとかいうんだそうですね。

 資本主義社会において持続可能ということは、即・お金が回る、ということです。
誰であれ、このことを否定することは出来ません。
「持続可能」ということを掲げて取り組まれる事業はいろいろあると思いますが、大事なことは「それをやるとお金が回るのか」ということ。

 その点、郊外型商業のポジションは明快です。
「生活財を提供し、代わりに地域のお金を持っていくこと」
なんですか、ショッピングセンター(SC)が出てくると雇用が増える、といわれ、それは確かにそのとおりですが、発生した雇用の賃金原資はどこから手当てされるのか?
その何十倍というお金が地域から流出するわけで、まあ、人並みの生活を維持するためにはやむを得ないことではありますが、何とか工夫して、せっかく地元が稼いだお金ですから、地元に残り地元で環流するようにした方がいいに決まっています。
 だからといってSCの出店をストップすれば、お客は商店街でかものをする=お金が地元で回る、ということになるかといえば、ご承知のとおり、みんな隣町のSCまで買いものにいってしまう。

 少子高齢化対策とやらで、「人口増大策」をといろいろと仕掛けを作って取り組んでいるところもあるようですが、増えた消費支出の受け皿はショッピングセンター、というのでは、地元は行政コストが増大するだけ、ということも大いにあり得る話です。なんですか最近は「引っ越して来たら奨励金」という制度を作っている所もあるそうですが、「来るところまで来た」感じ。

 存続可能とは「お金が回る」ということです。
「お金が回る仕組み」づくりをそっちのけで「少子高齢化」に対応することは出来ません。

 中心市街地活性化の定義:「都市機能の増進と経済活力の向上」の総合的・一体的推進とは、「中心市街地を軸にお金が回るようにする」こと、少なくとも都市の「お金が回る仕組み」の主要な機能の一つとして中心市街地の存在価値を再構築すること。
もし、都市の維持コスト縮減という発想で政策を考えるなら、中心市街地居住を促進するよりも、過疎化した周辺集落をつぶした方が合理的ではないのか?

 マーケティングにスキミングミルクというノウハウがありまして、市場の上澄み部分だけをすくい取ろうという戦術ですが、中心市街地に分譲マンションを建てて、まちなか居住を促進する、というのは、周辺地区からマンション購入条件を持っている人だけを中心市街地に呼び寄せる、ということ以外にあまり効能効果はないのではないか。

 もちろん、そういう人たちが移住した後の縁辺地域の過疎化はいっそう拍車が掛かり、だからといって雪かきその他止めるわけには行かないし、まちなか密集居住もまた新しいコスト源になりそうです。
ということで、コストパフォーマンス的には逆効果ではないか?
と素人的には心配されるのですが、どうなんでしょう?

 「賑わい創出」といった阿吽ではない、「中心市街地を事業機会として再構築する」という方向が、唯一、中心市街地を中心市街地として再生させます。「地域でお金が回る」仕掛けづくりの不可欠の一環として、中心市街地の商業街区を再構築すること。

 再構築するための客観的条件は、すべての都市に共通しており、都市は「中心市街地を活性化したかったらこうしてみろ」と「活性化への道」が提案されています。
道を知り、歩み始めるか否か、というところが中心市街地活性化だけではない、持続可能な地域社会としての自立的都市づくりの成否を分かつ分水嶺ですね。

 以上は、「お金が回らなくても持続可能な地域社会」を構想実現出来る都市には関係のない話です。

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進化する売場研究会

  • Author:進化する売場研究会
  • 【キラリ輝く繁盛店づくり】
    お客に見える店づくり―見える化をテーマに【個店の繁盛】から【商店街活性化】、【中心市街地の商業集積としての再構築】まで一貫した取組を支援します。
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